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人は「証明」出来た時に初めて「答え」を得られる



人に限らず全ての生きとし生けるものは、自ら「経験」することで「答え」という「確証」を得るもので、だから「確証」という「経験」を得ていない「答え」をいくら求めても、「答えを得た」という実感はなく、だから「確証」を得ていないうちは「知っているつもり」でしかない。


「答え」を得たと思っていても、結局は腑に落ちず、だから次から次へと「答え」とされる「情報」を求めて彷徨う。
しかし、いくら「答え」とされる「情報」を得ても、それは「そうであるかもしれない」という「情報」として蓄積されるだけで、「確かにそうだ」という「確信」は、結局のところ「経験」という「証(あかし)」があって初めて「答え」として醸成する。


だから「証明」し続けることである。
誰が何を言おうとも、自分の中で「証明」されたものしか「答え」にはならないのだから。

理屈は理屈でしかなく、論理は論理でしかなく、推論は何処まで行っても「推測」の域から出ることは無い。
「推測」を「確証」へと変えるには「証明」するしかない。

「証明」は誰かに示すものではなく、自分の中で「腑に落とす」もので、「腑に落ちた」時初めて「答え」となるもの。

その「答え」が理屈から離れ、論理的に破綻していると見えるなら、それは「理屈」が間違っており、「論理」そのものが間違っている。
何より「事実」がそれを「証明」しているのだから。

「証明」することを疎かにして、誰かの「答え」に依存してきたなら、「証明」することそのものをしようとしなくなる。
だからいつまでも「確信」が得られず、だから次に進めず堂々巡りを繰り返す。
だからいつまでも「誰かの答え」に振り回される。



事実は小説より奇なり・・・・

それと同じように「事実」は「論理」から逸脱するものである。

論理や理屈に合ったものと、経験した現実と・・・
その時、どちらを取捨選択するのか?

経験し証明された事実ほど重いものはない。
誰かがそれを「間違っている」と思ったり言ったりしたとしても、「確たる事実」があるならば、それに勝るものはない。

自分が経験し自分の中で証明したものは、けっして揺るがない。
だから、揺らいでいるうちは自分に対して「証明」出来ていないわけである。


「どうすればいいかわからない」

わからないなら「証明」することである。

「何をどうすればいいかわからない」

ならば「何をどうすればどうなるのか」を「証明」することである。

「どうやって?」

経験を積み上げていくだけである。


経験しなければ証明は出来ず、証明できなければ確証は得られず、確証がなければ自信は生まれない。

自分に「自信」という「証明」がなければ、誰かの「自信」などわかるわけもない。
それが「自信」なのか「不安の裏返し」なのかの見わけもつかない。

誰かの「不安の裏返し」の行動、言動を「自信」と勘違いする。
だから「不安の裏返し」で誰かを「勘違い」させようとする。

情報を見る目・・・というのは、「人を見る目」に他ならず、人を見る目は「自身を見る目」がなければ養われない。
自分自身を見ることを「避けて」いるから「人を見る目」が持てず、だから「情報」に振り回される。

「答え」とされる「情報」に振り回されて、いつまでも自分自身が定まらない。



自分自身をちゃんと見よ。
見ないふりをするのをやめよ。
自分の行動、自分の言動、自分の思考、自分の思い、自分の衝動・・・・・
奥へ奥へと入ってゆけ。
そして「最奥」へたどり着いたなら、そこから今度は外へ外へと向かって行け。


何度も何度も繰り返してゆけば、最初は「最奥」へたどり着くのに困難であったものが、徐々に楽にたどり着けるようになってくる。
何度も繰り返すことで、心の中が「掃除」されてゆくからである。
何が邪魔で何が必要かがわかってくる。
そしてそれは「行かなければわからない」ものである。

邪魔なもの・・・・
それが「邪」であり「魔」であるとわかる時が来る。
それは何度も経験することで「証明」される。
だから「確証」となり「自信」となり「揺るがない」ものとなる。


自分の「最奥」にある『衝動』
それが「行動」へと繋がるまでに様々な「邪魔」が入るから、「心・口・意」が揃わない。
「心・口・意」が揃っていないから、揃っている人と揃っていない人の行動、言動の見分けがつかない。

心の中に様々な「邪」が棲み「魔」が棲んでおり、それらが「最奥」にある『衝動』の「邪魔」をして、「邪」となり「魔」となる行動、言動となる。

「正しさ」も「喜び」も「労わり」も「慈しみ」もすべて「邪」が混じり「魔」が混じったものとなる。
そして、だから見分けがつかない。


心の最奥の純粋な湧き出る泉に辿り着かなければ、「愛」などわからないままである。
「愛」を理屈しているうちは「辿り着いていない」ことを証している。

心の最奥は、心の頂上

東西南北どこから登ってもたどり着けるだろう。
東西南北とは「喜怒哀恐」
どこから登るかは自由である。
喜びから登っても、怒りから登っても、哀しみから沈んでも、恐れから進んでも・・・・


「頂上」という「最奥」である『真ん中』に辿り着けたなら、そこに湧き出す眞名井の清水が「愛」であることを知ることができるだろう。

その泉の水をちゃんと外へと持ち出せたなら・・・
泉の水の「衝動」が自分の「行動」となったなら・・・

【神】がその身に「示現」したこととなる。

最奥の泉に辿り着く前に、泉の水を持ち出したとしたならば・・・・
【邪】であり【魔】であるものがその身に「示現」したことになる。

それを誰に偽ろうとも自分自身は誤魔化せず、だから誤魔化しも示現する。

だからわかるんだよ。




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