【責任】を負わない『自由』の成れの果て
4年前
アメリカの大統領選が行われている時に、私はひとつの予言をした。
「次にトランプ氏が大統領になったら、きっと【羅王】のようになるだろうと・・・」
【羅王】とは「北斗の拳」の【羅王】である。
前回の大統領選で敗北し、4年という期間でさらに醸成されて【羅王】への道を強力に突き進むようになったのだろう。
『覇道』
世界はそこに向かい始める。
『自由』を履き違え、無責任な『無法』がはびこる世界となった。
『自由』を唱える者は多かれども、『責任』を唱える者は少ない。
『責任』の無い『自由』は『無法』となるのは当然のことである。
ジャーナリズムは『言論の自由』は謳うが、『言論の責任』は謳わない。
だから『言論の毒』が撒かれゆく。
そして誰も「毒」を撒いた『責任』を負わない。
かつて「オーム真理教」信者が『サリン』を撒いた。
それを『信者が勝手にやったこと』として「教祖」である『麻原彰晃氏』が『私に責任はない』で通じるのか?
サリンを撒いたのは『教祖自身』ではなく『信者』である。
製造したのも信者であり教祖自身ではない。
「だから教祖に罪はない」
などという理屈は通用しない。
ネットの広がりとともに『言論毒』を平気で撒き散らす人々が増え続けている。
そして『言論の自由』を盾に『毒』を撒き散らす。
私は元探偵である。
だから「情報」ひとつで「人を殺せる」ということを知っている。
また、人は「突発的」ともいえる状況で「自殺」してしまう。
「たったそれだけの理由で?」
他人が見ればそのように思ってしまうような理由で人は自ら「死」を選ぶ・・・ということを見て来た。
「生きていてくれ」と思いながら、やっと探し当てた時は「死んでいた」などということを経験してきた。
そんな時に「あの時迷わなければ・・・・」などという後悔が沸々と湧き上がってくる。
「言葉の毒」
それは、人の心の中で広がり浸食してゆくものである。
そして、浸食され広がって「疲弊しきった心」に、ほんのささいな『きっかけ』があれば人は「死」へと向かうのである。
『情報』という「言論」であり「言葉」で、人を「殺す」ことが出来る。
それを『意図をもって』やったなら「殺人」である。
では、『意図』が無ければいいのか?
「まさか死ぬとは思わなかった」で済む話ではない。
「言葉の毒」を投げつけるのは、石つぶてを投げつけ、卵を投げつけ、糞便を投げつけているのと何ら変わらない。
そして、「当たり所」が悪ければ大けがをするかもしくは死ぬことさえある。
投げたものが周りの誰かに当たることもある。
そして、意図的に「周りにも当たる」ように投げるものもいる。
『言論の自由』という『責任』を伴わない『無法』な自由は、やがて「大量殺人」へと転化してゆく。
『言論』ですらない『ポーズ』という「映像」を投げかけ、「無法」をさらに「ひとつの塊」へと転化してゆく。
『自由の国アメリカ』の『自由』は、『無法』へと流れる大きな潮流となるだろう。
世界中がそうであるように・・・・