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統一運動《8/11 今日は何があった?》

1946年 真のお父様、平壌大同保安署収監 👇
1984年第4回「世界宗教者会議」(韓国)
2002年 天地父母統一安着生活圏大会 嶺南圏、釜山、ロッテ・ホテル
2014年 鮮鶴平和賞委員会出帆式、ソウル、プレスセンター 👇


2019年孝情文和苑奉献式(韓国・清平)

《1946年 真のお父様、平壌大同保安署収監》

真の父母経p223

キリスト教指導者たちの不信と大同保安署での受難

 平壌で真のお父様の教会が、恩恵深い役事によって活気を帯びるようになると、篤実なクリスチャンたちが自分の教会に行かず、真のお父様がいらっしゃる所にばかり来るようになったため、彼らが所属していた教会の牧師と長老たちが、真のお父様の集会所にまで来て、狼籍を働き、一部の教会員を拉致していったこともあった。のちに、彼らは、自分たちの思うとおりに解決されないと見るや、共産党当局に、真のお父様が南から来た怪しい人物であり、不法集会を行う者であると告発し、真のお父様は、一九四六年八月十一日、大同保安署に収監された。そのような中でも、大同保安署の中で神霊教団の教主に会うことを霊的に察知され、そこに入られたのである。大同保安署には、腹中教の教主である許浩彬と、その人に従う幹部たちが収監されていた。許浩彬は女性で、真のお父様とは違う監房にいたが、男性の幹部は真のお父様がいらっしゃる監房に入っていたため、その人と多くの会話をされた。当時、腹中教は、主が許浩彬の腹中にいると考え、おなかが振動するたびに出てくる言葉を通して、信徒たちを指導していた。真のお父様は、その信仰を否定して監房から釈放されなければならないと伝えたが、許浩彬は真のお父様の言葉を信じなかった。そのため、真のお父様は、最後の手段として、秘密裏に紙切れを許浩彬に送られた。許浩彬は、真のお父様の言葉を信じるか、無視するか、二つに一つを選ばなければならない立場に立たされた。しかし、彼女は、真のお父様に会ったこともなかったため、結局、真のお父様のみ言より、自分の信仰を守ることが、自分の侍っている主に対する道理であると考え、その紙切れを捨てようとした。真のお父様のことをメシヤと分かれば、その紙切れを大切に保管したはずだが、それが分からず、無情にも捨てようとしたのである。そうして、その紙切れが保安署当局に発見され、真のお父様は厳しい拷問を受けて、瀕死の状態で保安署の外に放り出されてしまった。このような真のお父様を、景昌里(キョンチャンニ)教会の食口たちが教会にお連れして、この上ない精誠で看護したのである。これにより、真のお父様は健康を再び取り戻すことができたが、許浩彬と幹部たちは、その後、獄死するなど、凄惨な最期を迎えた。

16 一九四六年六月、共産党は以北の全域で、新しい宗教団体に対する弾圧を始めました。ですから、それと類似する団体があれば、糾弾されざるを得ない立場でした。当時、お父様は平壌の景昌里で伝道活動をしていました。なぜ以南(現在の大韓民国)にいた私が以北に行ったのでしょうか。
 その当時、韓国の信仰の中心地は平壌であり、またそこで信仰の闘争歴史が綴られてきたからです。このように、天が準備した基盤の上で新たな出発をすべき使命があったので、以北に行ったのです。そうして、そこで伝道活動をしていたところ、八月十一日に共産党に捕まって大同保安署に入ることになりました。

17 一九四六年にお父様は、共産党に捕まって平壌の大同保安署に入りました。当時は、平壌で、キリスト教界が解放を迎えて、教会を再建しながら歴史的な使命を果たすために新しく出発していた時でした。このような環境の中で、平壌に行って新しい運動を展開したのです。当時のキリスト教界では、この民族に訪れた解放の喜びとともに、日本統治下で圧政を受けながら悲痛な信仰生活をしてきたすべての恨を取り除き、新しい望みと希望にあふれた教会の再建と信仰の革新運動が起こっていました。
 そのような新しい再建の火が広がる状況の中で、景昌里教会が出発することになりました。このような環境の中で活動をしているうちに、キリスト教の中心となる信徒、または特別な恩恵を受けた人たちが、自分の所属教会に行かずにお父様のところに集まってきました。それで、当時、平壌で問題になり始めたのです。その時、お父様は西門(ソムン)から近い景昌里で伝道をしながら、教会出発の基盤を立てていました。

18 お父様が許浩彬氏の集団と関係があるとして監獄に入っていた時、許浩彬氏に紙切れに書いた手紙を送りました。お父様は「この手紙を書いた人は天の使命をもった人物である。あなたは祈ってその人がどのような人なのかを調べなければならない。もしあなたが啓示を受けたすべてのことを否認するなら、あなたは釈放されるだろう」という内容を書いて送りましたが、その紙切れが看守に発覚しました。それで、お父様はひどい拷問を受けました。一九四六年九月十八日、午後二時のことです。
 その時、韓国にいるアメリ力軍のスパイとしても告発され、ソ連の調査官によって尋問を受けましたが、無罪であることが判明しました。それで、お父様は、一九四六年十一月二十一日の午後に釈放されました。許浩彬氏とその追従者たちは、お父様の言葉に従いませんでした。一九五〇年に「六・二五動乱」が起こった時、彼らはすべて虐殺されてしまったのです。その集団の失敗ゆえに、お父様はほかの人たちを探し求めなければなりませんでした。条件的な数を探し出せるまで、活動したのです。

真の御父母様の生涯路程2
五 平壌大同保安署の受難と腹中教(一九四六・八・一一~一一・二一)

大同保安署に拘束(一九四六・八・一一)

 先生は一九四六年八月十一日、北韓の共産党により、宗教と称して詐欺をしたという罪名で、大同保安署に投獄されました。
 動機がどのようになって、このような問題が起きるようになったのでしょうか。皆さんの中でも、腹中教について聞いたことのある人がいるでしょう。
 一九四六年六月、共産党は、北韓全域において新しい宗教団体に対する弾圧を始めたために、それと類似した団体があれば糾弾しなければならない立場でした。
 許孝彬氏の集団が摘発されました。純粋な国民に宗教という美名のもとに詐欺を働いたというのです。なぜなら、財産を売って作った服が、トラック数台分になるからです。そして、その神霊集団の許孝彬氏ゆえに、私が引っ張られて入ったのです。
 また、私が南側から来たから、李承晩の手先だとか。しかしどんなに調査をしてみても根拠をつかむことができませんでした。それで、男の巫女であるとか、社会の風紀を乱すとか言って、捕まえて閉じ込めました。
 蕩減復帰の原理に従って、先生は、先生を待ちながら準備しているその集団に会いに行くことができませんでした。もしその準備された集団の指導者だったその許夫人が、主がおられる所を知るために神様に祈祷したならば、神様が彼女にそこを教えてくれたはずです。それで先生は、彼らが来る時まで待っていました。
 そうこうするうちに先生はその集団に人を送り、許夫人に、「先生の集団が何であるか、祈祷して調べてみなさい」と言いました。しかし、その時、許夫人は、一つの大きな兆候を期待したのであって、一人の若い男などには期待もしませんでした。それで彼女は、彼を送り返しました。そののちに、先生は一人の若い女性をその集団に送りました。しかしその集団からは、何の反応もありませんでした。
 しかし神様は、準備したその女性に責任を負わなければならないために、先生を監獄に入れるようにしました。一九四六年八月十一日から十一月二十一日まで収監されている間、先生は彼ら集団の幹部たちや、その婦人の夫、その集団の協会長のような人に会って、彼らが行くべき所を教えてあげました。

腹中教徒釈放のための獄中措置

 監獄に入ると、その婦人と相対になって、教育して、全体に責任をもっていた黄元信という人が、その部屋にいました。その時が一九四六年八月十一日ですが、十一時ごろに私が入ったのです。ところが、その翌朝、その人が私の所に来て、敬礼をしたのです。それで私がどうしてそうするのかと聞くと、「私は知っています。私は申し上げなければなりません」と言って、自分の集団に関するすべてのことを話すのです。「霊界から知らせてくれたので、この方だけには報告しなければならない」というのです。
 それで私は「これはあなたの責任だから、このように処理して、このようにして、許孝彬氏に早く出るように言いなさい」と言ったのです。出なければ、全部この監獄で倒れるというのです。それで黄元信が一人出たのです。その後、私が監獄から出たのちに訪ねてきたのです。訪ねてきて言うには、「信徒たち一同に、いくら勧告しても聞こうとしない」というのです。
 その人が釈放されたのちに、許夫人の夫が先生の部屋に来ました。先生は夫に、先生がその人に言ったことを話しました。しかし夫は、「自分は妻に従うつもりだ」と言いました。そうして彼は、先生の話を受け入れようとしませんでした。
 最後に、先生自身が一通の手紙を書きました。それは九月十八日の朝でした。先生は食事の時に、御飯を配る人に、その手紙を許夫人に渡してくれるように頼みました。彼女は、その手紙を読んでから破いてしまおうとしたのですが、その時、彼女は共産党の監視員に見つかってしまいました。それは、その紙を持っていってくれた人が、看守に知らせたためでした。それで先生は拷問を受けました。それは一九四六年九月十八日午後二時のことでした。
 その時、奥歯にひびが入ったのです。机の足に、打ちつけられたのです。何のスパイかというのです。その時逆さに倒れてこの歯が割れたのです。

むごくひどい拷問

 先生が共産党に捕らえられ、むちで打たれる時、そのむち打ちがとても激しかったのですが、踏ん張りながら、どんなに打たれても倒れないと決意しました。
 袋だたきになって、東西南北の十二方位を全部打たれても、ひたすら無言で打たれなければならない時が、一度や二度ではありません。牛の陰茎棒というのがあるのです。そのようなもの、知らないでしょう。牛の生殖器で作った棒です。それは革のようです。革よりもっとすごくて、溝がすーっと入っていて、このくらいの長さです。これで強く打つと、肉をえぐってしまうのです。一遍に、そこに血のあざがつくのです。そのようなもので打たれても、「打ってみろ、こいつ!」としたのです。
 先生がそのような辱めを受ける立場で流した汗は、どんな汗でしょうか。ありったけの声でわめき散らしたならばそれ以上で、血を流したならばそれ以上だということを知らなければなりません。涙を流したならばそれ以上だというのです。一週間の間座って泣いたのちには、太陽の光が見られなかったのです。なぜでしょうか。神様がこのようにかわいそうであるのか、初めて知りました、歴史始まって以来。
 先生は、それを知ったがゆえに、監獄で血を流して拷問を受け、死ぬようになる場でも、「神様、安心してください。私は弱い者ではなく、サタンのどんな威圧にも勝利できる男です」と神様を慰労してあげたのです。
 先生はソ連の共産党に、一週間、眠ることのできない拷問も受けてみたのです。「こいつ、お前が耐えるか、私が耐えるか」としながら、おもしろい時間だと考えるのです。普通の人々は一週間も過ぎれば、全部こうして、寝ながらすべてを話してしまうのです。先生は、目を開けたままでもよく眠るのです。それを研究したのです。その時に訓練を受けたので、今も眠気が来れば、その方法を利用するのです。
 真っ赤な部屋に座らせて、御飯も与えずに、一週間閉じ込めておくのです。真っ赤な部屋にずっと座っていると、狂ってしまうのです。何も見えなくなります。ですから、私のような人は目を開けて眠るのです。よく見ると、目は開けているのに眠っているのです。
 それで、文総裁は男の巫女だといううわさが立ったのです。「あの人は閉じ込めておけば、鍵を開けて出てくる」と言って、七人が広がって、二十四時間見張るのです。

慰労と同情の差し伸べられた手

 先生が、忘れられないことは……。監獄で拷問を受けて、一人で体を支えることができない境地で呻吟する時に、本当に多くの体験をしたのです。神様がその場に共にいてくれて、神様自ら抱いて共に夜を過ごすことを感じるようになる時、どれほど神様が私を、親しく愛しているかということを感じたことがあるのです。そうした死の境地で保護してくれた神様が、私をそのように保護された神様が、皆さんと共にあることは間違いない、ということを私は知っているのです。
 死の道に入っていっても、必ず恩人が現れるようになっています。私が共産党の世界に行った時、一人の者が、「死ね」と、やたらにたたいたり殴ったのですが、ある人が、何か買ってきて侍りながら言うには「なんとかさん、あの刑事のやつの性格がああなので、あなたがひどく殴られました。だからといって保安所員が、みなあの人と同じだろうとは思わないでください」と言って慰労しながら、餅も買ってくれ、おいしい物を買ってくれるのでした。ひそひそと話をしてきて、使いまでもしてあげようとするのです。悔しさを受ける絶頂には、必ずそのようなことがあるのです。
 先生が今も忘れられない人は、その時に捜査を担当した洪という人と、仕事全体の責任をもって指導した朴チャンヂョンという人です。この人たちも、ある時が来れば、みな会うのです。

《2014年 鮮鶴平和賞委員会出帆式》
鮮鶴平和賞とは
https://sunhakpeaceprizejp.org

 天暦7月16日(陽暦8月11日)午前11時から、韓国・ソウルにあるプレスセンター19階の記者会見場において、世界各国から各界指導者130人以上が参加する中、「鮮鶴平和賞委員会出帆式」が行われました。 
 「鮮鶴平和賞」は、「文鮮明・韓鶴子総裁平和賞」の略語で、世界各国において、人類と平和のために献身し努力した個人や団体を発掘し、表彰するために制定された賞です。
 高麗大学の総長を歴任したホン・イルシク委員長より委員会のメンバーが紹介され、ブトロス・ガリ元国連事務総長、アンワルル・カリム・チャウドリー元国連事務次長、チョン・テイク韓国外交協会長、曹渓宗仏国寺住職のソンタ僧侶など、世界各国の政治・言論・教育・NGO・学術・宗教などの各界を代表する10数人の有識人たちが名を連ねました。
 また、ワシントン・タイムズ社長のレリ・ビスリ委員が「鮮鶴平和賞」制定の趣旨を発表。続いて、シャナナ・グスマン東ティモール首相が祝辞で、「神様の下の人類一家族」「ために生きる」といった文鮮明師の提唱した思想を賞賛しつつ、「国家や人種、宗教を超越した平和のための賞設立を心より歓迎する」と述べたほか、ソウル平和賞文化財団のイ・チョルスン理事長より文師の遺言を韓鶴子総裁が実現されたことへの感謝の意を表する祝辞が寄せられました。
 最後に、キム・マンホ事務総長から「鮮鶴平和賞」の第一回表彰式は2015年に行われ、その後は毎年表彰を行う予定であることなど詳細な説明がありました。
 会場内には、韓国の主要テレビ局のKBS、SBS、MBCや新聞、雑誌などのマスメディアが数多く取材に訪れ、韓国社会の「鮮鶴平和賞」への関心の高さが伺えました。

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