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統一運動《12/4 今日は何があった?》

1950年 真のお父様、平壌から避難の途に就く(金元弼、朴正華同行)
1966年 興進様誕生(陰10・23)
1973年 アメリカ、21か都市巡回講演会 シンシナティー、コンベンション・センター
1977年 ワシントンDC教会献堂式
1977年 国際巡回復興団韓国訪問 韓国12都市
1984年神山威氏、ダンベリー連邦刑務所から出監
1995年 「真の家庭と私」世界16か国巡回講演 台湾、台北、国際コンベンション・センター
2005年 「天宙平和連合」創設記念世界巡回大会 ソロモン諸島、ホニアラ、ソロモン・キタノ・メンダナ・ホテル
2007年第33回「中東イニシアチブ-中東平和のための超宗教サミット」(~9,イスラエル)ユダヤ教、キリスト教、イスラームの聖職者らが参加
2010年 天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会、天福宮
2021年第3回 シンクタンク2022フォーラム(韓国・清心平和ワールドセンターおよび全世界)

《1950年 真のお父様、平壌から避難の途に就く》
真の父母経p236

弟子と共に歩んだ南下路程

  真のお父様は、一九四八年二月二十二日から一九五〇年十月十四日まで、二年七カ月と二十一日間、平壌内務署と平壌刑務所、興南監獄において厳しい拷問と過酷な強制労役の中、死の淵を越えて蕩減路程を勝利された。
 興南監獄を出獄されたのち、既に大勢の人々が避難していた平壌で、昔の食口の収拾に専念され、四十日後に南下された。
 真のお父様は、十二月四日の夜、平壌のキリスト教を代表する新婦格の金元弼(キムウォンビル)と共に、獄中の弟子を代表する朴正華(パクチョンファ)を自転車に乗せ、大同江(テドンガン)の下流から、船便で川を渡られた。黄海道(ファンヘド)の碧城郡(ピョクソングン)に着き、青龍(チョンニョン)半島の南端から龍媒島(ヨンメド)に入ったが、再び戻って凍りついた臨津江(イムヂンガン)を渡り、南下された。
 平壌から二人の弟子と共に南下する苦難の路程は、堕落した人類を導き、創造本然の理想世界に率いていく、天の摂理の一面を象徴的に見せてくれるものであった。

 1 私は、興南の監獄から出て平壌にまで来ても、両親が故郷にいるのは知っていましたが、故郷に行くことができませんでした。いくらでも行ってくることができたにもかかわらず、行けなかったのです。その時、故郷に行けなかったのは、監獄に入る前に私に従っていた食口たちの安否が気遣われ、彼らに会って収拾し、すべて通告してから故郷に帰らなければならないという考えからでした。それが天に従う正道です。
 そうしているうちに、突然戦況が変わり、故郷には行けなくなりました。このような情勢になることは予測していました。それで、故郷に立ち寄らず、その食口たちを急いで捜し回ったのです。ですから、三十八度線を越える時に、「私がこのように故郷をあとにして発つのは、天のためであり、私が再び帰ってくる時は、私の手で以北(現在の北朝鮮)を解放し、私の故郷の地を訪ねて、天の勝利を称賛いたします」と祈りました。その祈りを中心として闘ってきたのです。

 2 興南の監獄から出て、平壌に行って何をしたのでしょうか。平壌で事件に巻き込まれて監獄に入る前まで私に従っていた食口たちに、会わなければなりませんでした。それで、一人一人にみな会いました。最後の三人のうち二人は、年を取って亡くなっていました。もう一人は、所在が分かり、人を送って会おうとしましたが、結局会うことができず、避難の途に就きました。一九五〇年十二月四日に平壌を出発しました。
 人民軍が(平壌に)入城して粛清をする過程の中で、私たちは出発したのです。その時、私は、足をけがした朴正華という人を自転車に乗せてきました。人民軍の銃声を聞きながら下ってきたのです。国道は人民軍が占領していたので、避難民たちはそのほかの小道や、道のない野原や山を越えて三十八度線まで南下してきました。ですから、人民軍とはわずか三里内外しか離れていなこを通ってきたのです。
 朴正華が避難の途中で、「このままでは三人とも死んでしまいます。ですから、私が抜けましょう」と言いました。行く道で足手まといになることを知って自決しようとしたところを、私に叱られ、最後まで付いてきたのです。龍媒島に出る時は、朴正華を背負っていきました。朴正華を背負っていったのですが、潮水が入ってくれば、みな溺れて死ぬかもしれません。あの困難な泥道を歩いたことが忘れられません。

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