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『スポーツの汀』を読んであれこれ

仕事でスポーツチームのDXを支援する上で、地域スポーツや学校部活動の成り立ちを考えることがある。

スポーツの原点をゆっくりと紐解いている本書。スポーツの始まりは、自然から生まれたものと、人々の営みの延長から生まれたものがありそうだ。

ゴルフが生まれた土地は、羊の放牧ぐらいしか使えない荒れ果てた砂丘が広がる海岸性の砂地で、羊を追いながら木を持ち小石を打つところから始まった。サッカーなんかはもとは労働者階級のスポーツで、ダービー戦のように隣町や隣国との争いもサッカー文化内に残っている。

スポーツは、暮らしの文化が表れている。

スポーツとは、結局、単なる技術とルールの体系としてあるのではなく、人間が文化を創造し、解消させ、再び端緒からそれを想像する複雑なプロセスをいかにして生き抜いてゆくかにかかわる哲学的にして倫理的な「方法」そのものなのだ。

スポーツの汀

古代スポーツは祭り同様に神事の要素が強く、近代以前は自然や争いといった人々のふだんの営みから生まれている。当初のスポーツにはなんとなくのルール(競技としてのルール)はあれど、それ以上にマナーやスタンスに重きを置かれているように思える。

フェアプレイとかスポーツマンシップみたいな、スポーツが持つ(と思われる)人格形成や教育的な価値は、近代以降に後から付け加えられているだけに過ぎない。

大英帝国の世界的展開のなかで、青少年の肉体強化を求める社会的言説が、教育の場を中心に形成されてきたのである。なによりもスポーツによる肉体の鍛錬が、勇気と忍耐力を持った身体を生みだし、そのことがイギリス国家への最大の奉仕となると考えられ、さまざまなスポーツが奨励された。

(中略)

スポーツによる肉体の鍛錬と規律化が、帝国主義的な国家イデオロギーにおける戦争への奉仕とじかに結びつけられて考えられていることに注意すべきであろう。

スポーツの汀

ルールを守りフェアに戦うことは試合を円滑に進行するための手段であり、相手にリスペクトを送るのは今後も継続して試合が続けるためのコミュニケーションであり、競技という共同体を存続させるためにある。

スポーツは遊びで、スポーツは繊細な感性が育む。

フラジャイルとは、もっと主体的で、繊細で、覚醒した意識である。自らの内部に秘められたもろい部分を凝視し、きわめて敏感になった身体意識の芯であらゆる経験の深みを測量しながら生きること……。「感じやすさ」を抑圧することなく、その繊細な知覚を生きる原動力に転化させてゆくこと。こうした実践のなかで、「弱さ」は独自の哲学を開示しはじめるのである。

スポーツの汀

ドリブルという技術が持っている本質的な美を讃え、「サッカー選手として、その遊戯的、快楽的、陶酔的本性を全面的に擁護する」と宣言した。

ソクラテスが直感していたのは「スポーツ」としてのサッカーが要請する規律化と組織化のなかでは、サッカーのルーディック(遊戯的)な本質が失われゆくという現実であったにちがいない。だからこそ、彼はサッカー・プレーヤーとしての全存在を賭けて、サッカーやカーニバルやサンバが共有する民衆的叡智の体系を死守しようとしたのだ。

スポーツの汀

とすると、目の前の仕事に戻ってみると、

スポーツビジネスにおいてその価値を考える上ではスポーツで遊ぶ・感じる、スポーツが直面する課題を考える上ではその社会・共同体の成り立ちをじっくりと振り返ってみるのが良いのかもしれない。

たとえば日本において、遊びとしてのスポーツを知るなら相撲とか流鏑馬みたいな神事・伝統芸能をもっと感じることだし、課題を考えるなら学校部活動の成り立ちや武道の歴史をじっくり遡ることが良さそうだ。

いっときネガティブにも語られていた「横綱の品格」なんて、スポーツが持つ遊びの価値を表しているんじゃないか。

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若月 翼
ありがとうございます。本を読むのに使わせていただきます。