高浜虚子『五百五十句』 好きな句と鑑賞
高浜虚子の『五百五十句』より好きな句を挙げつつ、鑑賞や感想などを。尚、『五百五十句』は、『ホトトギス』五百五十号を記念して出版されたもので、昭和11年から昭和15年までの句の中から虚子が約550句を自選している。『五百五十句』という題名なのに、570から580句収録しているというのが可笑しい。
鴨の中の一つの鴨を見てゐたり
虚子のすべての句の中でも特に好きな一句。句の表面上は、鴨の中の一つの鴨を見ていた、というだけ。しかしそれが面白いという。これを面白いと思うか、面白くないと思うか。そのあたりは俳句観にもよるのでしょう。
日ねもすの風花淋しからざるや
一日舞っている風花を淋しいものとして見ている、そういうものの見方に興味惹かれる。
七草に更に嫁菜を加へけり
七草とは一般に「せり、なづな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」のこと、そこに嫁菜も加えたという句。ただ、この句には「川崎利吉息安雄結婚披露」とあり、川崎利吉の子息安雄氏の結婚披露の際の贈答句。「嫁菜」に「嫁」をかけたものでしょう。贈答句の名手、虚子の腕がさえている。
鯖の旬即ちこれを食ひにけり
鯖の旬なので鯖を食べたと。それがいかにもうまかった。簡潔なものいいがさっぱりしていて気持ちいい。
へこみたる腹に臍あり水中り
水中りで弱った自分の腹を見て、そこに臍を発見し、少し面白がっているような。微苦笑が見える。
老人と子供と多し秋祭
秋祭のなつかしい感じ。
実をつけてかなしき程の小草かな
小草への親しみ。虚子のまなざしはやさしい。
冬日柔か冬木柔か何れぞや
冬日も冬木も柔らかに感ずる、そんな明るくて気持ちのいい冬の一日。
焚火かなし消えんとすれば育てられ
「焚火かなし」というように、虚子は焚火という無生物にも親しみを感ずる。まさに「天地有情」のさま。
旗のごとなびく冬日をふと見たり
「鴨」の句と並び、虚子のすべての句の中で特に好きな一句。「旗のごとなびく冬日」とは、目に一瞬輝いた冬日の強いさま。それをふと見たと。「ふと」ということで、その一瞬が強められている感じがする。強い冬日のピンボケ写真のような。
休んだり休まなんだり梅雨工事
こういう俗の句も心地よくまとめるのが虚子の腕。「だり」の連なりのもたもた感に、梅雨工事の感じが出ている。
もの置けばそこに生れぬ秋の蔭
「もの」というぼんやりした言い方、それがなにかを明確にしていないところに句の余裕のようなもの、あるいはとらえ難さが生まれている気がする。そこには「秋の蔭」があるばかり。この句には結局、モノがないんだな。
寒き故我等四五人なつかしく
寒い日の集まり。それで集まった四五人の間にかえって親しさ、懐かしさがいっそう生まれたと。
春水をたゝけばいたく窪むなり
春水が生きもののようだ。
ついて来る人を感じて長閑なり
これは変な句だなあと常々思う。
淋しさの故に清水に名をもつけ
それで淋しさが紛れるかどうかは別として、そんなことをしてみる。
手毬唄かなしきことをうつくしく
うっすらとした気分だけがあって、あとは調子で出来ているような句。
枯草に尚さま〴〵の姿あり
「尚」に枯草への愛情のようなものを感じる。
大寒の埃の如く人死ぬる
そうだなとしかいいようがない太さがある。
大寒や見舞に行けば死んでをり
前句よりもむしろ自分はこちらの方に親しみを感ずる。事実をぽーんと投げ出したような、非情の句。しかしながらこういうのは俳句でしかその味がでない類ではないかとも思う。
羽抜鳥卒然として駈けりけり
「卒然として」が羽抜鳥のありようを生き生きと見せている。そこには羽抜鳥への親しみの念がある。羽抜鳥を微笑ましく見ている。
供へ置きし柿たうべばやと思ひけり
ときにそう思うことがある。そういう人間味がある句。
よろ〳〵と棹がのぼりて柿挟む
『五百五十句』には突出した句が多い。この句も虚子の特に好きな句の一つ。棹が頼りなくのぼっていき、柿を挟むまでのさまが描かれている。それは実景にしてどこか滑稽だ。スローモーションで、棹に映像が寄っていく感じ。やはり肝は「よろ〳〵」だろう。
おでんやを立ち出でしより低唱す
「低唱す」なんて一度使ってみたい。
さまよへる風はあれども日向ぼこ
風のある日の日向ぼこはいかにも頼りなげだ。
北風に人細り行き曲り消え
「細り行き曲り消え」と細かくいっているところが変に面白い。「消え」の止めも、北風の寒々とした感じ、一種の心の不安定感に一役買っているような。