岸本尚毅『鶏頭』 好きな句と鑑賞
岸本尚毅氏の第一句集『鶏頭』(牧羊社/1986年)より、好きな句と感想、鑑賞を。
冒頭の一句。端的なモノが示されている。それだけである。何か俳句に対する決意、あるいは態度そのもののような句にも思える。鮮やかだ。
ずいぶんとすっきりした句のように見えて、確かな「技」を感じる。冬の蚊が冬空にはっきりと見える、というのであるが、まず「冬空」という大きなものを先に出すことで、後の「蚊」という小さなものとの対比を際立たせている。また、「かたち」ということで蚊の輪郭までが見えるようで、蚊の存在感を増している。「蚊のかたち(kanokatachi)」という硬めの音の連なりや「はっきり」という措辞も、冬の空気感に貢献しているように感じられる。
雪が舞う中、鶯餅を食べている。「雪舞ふ」によって、鶯餅のひんやりした感じややわらか味といったものがよく伝わってくる。それを「鶯餅が口の中」とだけいってすませているところがいい。
金網に吹きつけられている野菊。現実にある些細な景だ。人生というのはそういう些細なものの連続だが、そこにもちょっとした趣きがある。そのちょっとした趣きを詠んだ。金網に吹きつけられている野菊への親しみのようなもの。そう私は理解している。
思わず時代劇を思い浮かべてしまう。足袋を履いて四五人がやってくるかのように。実際はそうではないのだろうけれど。「みしみし」が的確。
ほんとそうだよなあと。凍った路面や氷柱が夕焼色に染まり、夕方の空気が漂っている。
意味としては「てぬぐひの如く」と「大きく」は別々に「花菖蒲」にかかるのが正しいのだろうけれど、「てぬぐひの如く大きく」が一気に「花菖蒲」にかかっているような錯覚をおこすことで、一時的に「てぬぐいのように大きな花菖蒲」というよくわからない奇怪なもの(一体、てぬぐいのように大きいとはどういうことだろう?)が想像される…というのが私の読んだ感じ。その後になって「てぬぐひの如く」「大きく」「花菖蒲」だとわかるのだが…そんなわけで、この句を読むときにはそういう妙な感じあってそれがまた私には強い印象を残す。シンプルなのに何か変な感じがするのである。
台風に逆らいながらひしゃげるように飛ぶ鳥が見える。自分には一生懸命な鴉が想像される。
岸本氏の自句自解によれば、これは女優の夏目雅子の訃報に接してできた句だという。「なきがらの四方」が「刈田となつてゐし」というのは現実の景ではないが、しかしそこには、死の暗さ、重たさ、おどろおどろしさはない。平仮名で「なきがら」とすることで、死のもつ暗さ、重たさが消されているだけでなく、「刈田」という季題のもつ広々と明るい感じが、死のものしさをも吸い取って、一種軽やかな無常感のようなものにまで昇華している。透き通った秋の日の刈田のなかに、ひとりの死が広がり、四散していく。そんな大きな自然さえ感ずる。