高浜虚子『六百句』 好きな句と鑑賞
虚子の句集『六百句』は、『ホトトギス』六百号の記念のために出版された句集で、昭和16年から昭和20年までの句の中から自選したもの。「『五百句』のときと同じく句数は厳密に六百句と限ったわけではなく多少超過しているかもしれなぬ」と虚子は「序」に書く。このあたりのいい加減さも自分には好ましく感ぜられる。
枯菊を剪らずに日毎あはれなり
枯菊を剪らずにそのままにしている、日々衰えて行くその姿があわれだという。しかし何をするわけでもない。ただその枯菊を眺めているだけだ。そんな慈しみと諦観の「あはれ」だと読む。
映画出て火事のポスター見て立てり
実際の火事を見ているのではなく「火事のポスター」だというのがちょっと可笑しい。だが、妙に季感はある。「見て立てり」という一見無意味な措辞が、ぼーっと火事のポスターを見て立つ人物のある種の不気味さを醸し出している。この無表情な句は虚子らしい。
唄ひつつ笑まひつつ行く春の人
いかにも楽しげな人を描くことでのどかな春を描く。
夫婦らし酸漿市の戻りらし
いそいそと、まだ青さも残る酸漿を手にしている、若くはない夫婦と見た。
冬の空少し濁りしかと思ふ
いかにも冬の空という冬の空が見える。余計と思われる「と思ふ」があることで、余計な情報が付け加えられないので、冬の空の印象が強まっているというのがある。
口あけて腹の底まで初笑
いかにもめでたい初笑だ。「腹の底まで」が気持ちいい。屈託のない笑い、大人物を想像する。
鈴虫を聴く庭下駄の揃へあり
そこに目をつけるかあ、と唸ってしまう。
へつらうが如き夜学の教師かな
「へつらうが如き」とは本当によく言ったものだと思う。教師のすがたがありありと目に浮かぶ。虚子は本当にさまざまな人間のありようをリアルに描く。
やや寒や日のあるうちに帰るべし
「やや寒」の日につい口をついて出てしまう句。こういう標語のような句も虚子はぬけぬけと作るのであった。
到来の柿庭の柿取りまぜて
頂きものの立派な柿と庭の普段の柿を取りまぜて客に出したという句。こういう何でもないところを詠む面白さ。些事を些事のままこうも俳句的に面白く詠むのかと、いつも唸らされる一句。
口に袖あててゆく人冬めける
「冬めく」という季題とはどういうものか。その答えのひとつとしての一句。
卓上に手を置くさへも冷たくて
言われてみればそうなんだけど、なかなか気づかない。虚子はそんなところを詠む。なんの衒いもなく、無表情に。
冬ぬくし日当りよくて手狭くて
庭に面した硝子戸の、炬燵のある日当りのよい居間。手狭だと物理的にもあたたかいのだけれど、身近に雑然とある物に対する親しみもあって、そういう手狭感が心理的にもあたたかいという。よくわかる感覚。
天地の間にほろと時雨かな
「天地の」という大きくとらえた、古風な言い回し。そこから入って、「ほろと」という小さくて、やわらかい、これもまた古風な表現。これらの言葉が広々と寒々とした空からちらちら落ちてくる「時雨」の感じをよく伝えている。この句を読むと、しばし足を止めて時雨の空を見上げる人物に自分自身がなっているような気がする。
片づけて福寿草のみ置かれあり
散らかっていた窓際の一角を片づけ、福寿草の鉢のみが置かれてみると、やはりひときわ明るく輝いているようだ。あたたかな冬の日ざしが見える。
猫いまは冬菜畑を歩きをり
明るい冬日の中を猫がゆっくり冬菜畑を横断している。「いまは」が猫を眼前に見せる。あちこち歩きまわっている馴染みの猫なのだろう。
ハンドバック寄せ集めあり春の芝
それもまた春の景。
スリッパを越えかねてゐる仔猫かな
スリッパを越えられずにまごまごしている仔猫に対する虚子のあたたかなまなざしを感ずる。
生きてゐるしるしに新茶おくるとか
新茶を送るという挨拶に対する挨拶の句。
うかとして何か見てをり年の暮
何の景もないのに、いかにも「年の暮」の感が強い。
犬ふぐり星のまたたく如くなり
犬ふぐりを見かけるとすぐにこの句を思い出す。自分には頭にこびりついて仕方がない句。
根切虫あたらしきことしてくれし
小憎らしい根切虫の仕業を「あたらしきことしてくれし」と詠んだ。何か幼い子供に対する愛情、愛着、慈しみと同じようなものを以て根切虫を見ているのだ。とても好きな一句。
軽暖の日かげよし且つ日向よし
軽暖(薄暑)の頃は日かげも日向もよいのだという。まだ清々しい日ざしが思われる、淡い単色の水彩画のような句に思う。
炎天に立ち出でて人またたきす
炎天に出たときのくらっとする感覚か。それを「人またたきす」と他人によって感じさせるところが普通でない。
ラジオよく聞こえ北佐久秋の晴
昭和19年9月4日、虚子は信州小諸町野岸甲3288に疎開した。その地での9月17日の作。虚子の「句日記」には「即事」とある。空気の澄んだ北佐久の秋晴の様子がよく伝わってくる。
刈りかけし蘆いつまでも其のままに
刈りかけの蘆がそのままになっている。刈られた蘆は半ば枯れ、力なく伏してあり、その傍らで生きている蘆が悠々と風に吹かれている。
舞うてゐし庭の落葉の何時かなし
先程まで庭で舞っていた落葉はいつの間にかどこかへ消えてしまってもう見えなくなっている。その庭を見ている。どこか淋しげな初冬の景。無常感がある。「何時かなし」の「かなし」が一際そうさせているのかも。
山の名を覚えし頃は雪の来し
小諸に疎開して約2か月経った昭和19年11月6日。山の方を見ると、早くも雪が降った様子だ。月日の経過と寒さの厳しい冬の季節の到来、その実感を詠んだものだろう。「舞うてゐし庭の落葉の何時かなし」と同日作。
冬山路俄にぬくき所あり
冬の山路を歩いていると急に日当りのよいあたたかいところへ出た、そのなんもいえない喜び、冬日への感謝と親しみを詠んだものだろう。さり気なくていい。虚子の全句の中でも特に好きな一句。
その辺を一廻りしてただ寒し
なにもないが、「ただ寒し」という実感だけがある。究極的な一句。
枯菊に尚色といふもの存す
枯菊への情。
四方の戸のがた〳〵鳴りて雪解風
早春とはいえ、小諸の寒さはまだまだ厳しい。それを「がたがた鳴りて」という戸の音で表した。家屋の中で縮こまる人物まで想像される。
見事なる生椎茸に岩魚添へ
岩魚に生椎茸が添えてあるのではなく、生椎茸が主で、それに岩魚が添えてあると。それほど見事な生椎茸だったと。
黎明を思ひ軒端の秋簾見る
昭和20年8月22日作。虚子の「句日記」には、「詔勅を拜し奉りて。朝日新聞社の需めに應じ」とある。「軒端の秋簾見る」と淡白に表したところがよい。同自作に「秋蟬も泣き蓑虫も泣くのみぞ」「盂蘭盆会其勲を忘れじな」「敵といふもの今はなし秋の月」の三作がある。
日のくれと子供が言ひて秋の暮
「秋の暮」という季題そのものがここにある。
深秋といふことのあり人も亦
人にも深秋ということがあると。すなわち、人間的な深みや気品といったものを有した老齢の人物のさまを詠んだものだろう。
大根を干し甘藷を干しすぐ日かげ
何の意味もないような生活の断片に目を留めて、人生のさまざまなものに対するちょっとした親しみや愛着、慈しみといったものを詠む、それが俳句なんだという虚子の俳句は、自分にはとてもよくわかり、親しく感ぜられる。
さかしまに樽置き上に冬菜置き
たとえばこういう何でもない些事を詠んだ句――さかさまに置いてある樽の上に冬菜が置かれているというどうでもいいことを詠んでどうなるわけでもないのだが、ただこういう句を読むと、人間の生活というものはそうした些事で出来上がっており、そこに目を向けるもまた俳句だという、そんな虚子の思いが自分には感じられる。
大根を鷲づかみにし五六本
ごつごつした大根の存在感とそれを五六本鷲掴みにした無骨な男の手、そういう荒々しさ。
冬籠座右に千枚どうしかな
座右の千枚通しに対する親しみを詠んだもの。長い冬籠、凡々たる日常が伺われる。