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高浜虚子『六百五十句』 好きな句と鑑賞
虚子の句集『六百五十句』は、『ホトトギス』六百五十号の記念に、昭和21年から昭和25年までの句から650句を虚子が自選したもの。
日凍てゝ空にかゝるといふのみぞ
寒々とした冬の日が空にうっすらとある。それを「日凍てゝ」と叙したところが非凡なだけでなく、「といふのみぞ」という結び。内容としてはなにもないにもかかわらず古風で、濁音の「ぞ」で止めた音の運びが、いかにも寒さの厳しい冬の日を体感させる。思わず背中が丸まってしまうような句だ。
紫と雪間の土を見ることも
雪が解け、そこから現れた土が紫色にも見えたという。春先のよく晴れた日、新しい土が目に鮮やかで、春の到来に心も浮き立つ。
山畑や鍬ふり上げて打下ろす
山の方を見ると、畑を耕している男の姿が見える。鍬を振り上げては打ち下ろし、打ち下ろしてはまた振り上げる。その動作を延々と繰り返している。春の昼の一景だが、そうして延々と生きてきた人間の営みの景でもある。
秋灯や夫婦互に無き如く
秋灯下、夫婦が静かにそれぞれ別のことをしている。会話を交わすわけでもない。けれどもそこにそうして共にいて、お互いに別のことをして、それが自然になっている。そういう老夫婦のありようを「互に無き如く」と詠んだ。「秋灯」がその静けさと落ち着き、そしてしみじみとした味わいを醸し出している。
二冬木立ちて互にかゝはらず
先の「秋灯」の句と同趣向の句だが、こちらの方が句が乾いている。
春雨のかくまで暗くなるものか
春雨に対する印象がそのままつぶやきとして口をついたような句。春雨の日にはついつい口に出てしまう、そんな口承性がある。
茎右往左往菓子器のさくらんぼ
菓子器に盛られたさくらんぼのさまを「茎右往左往」と叙してみた。いかにも自在な詠みっぷり。
爛々と昼の星見え菌生え
昭和22年10月14日、小諸を去る虚子の送別会にての作。菌が生えているところから昼の星が見えた、その感じを「爛々と」と形容した。「欄々と」とは「鋭く光り輝くさま」を言うが、これが昼の星と菌両方にかかっていて、句に一種不気味な様相を与えている。また、「生え」という連用形の終わり方の不安定感も、句の不気味さ、とらえ難さに一役買っている。句全体が胞子にまみれて妖しく光り輝いているかのようだ。
大木といふにあらねど夏木立
夏木立への親しみ。
日蔽が出来て暗さと静かさと
日蔽の下の安堵感のようなものを「暗さと静かさと」と詠んだ。「暗さと静かさと」とあることで、逆に強い日差しも見えてくる。
秋雨や庭の帚目尚存す
秋雨の中、庭の箒の目がなおも残っている。そのさまを見つつ、しばし静かな秋の雨の日を感じている。
手で顔を撫づれば鼻の冷たさよ
顔を撫でれば鼻の冷たさにぶつかった。それをぶっきらぼうに詠んでいる。この無表情さが虚子だ。
死にし虻蘇らんとしつゝあり
動かずにいてもう死んだのかと思っていた虻が、ふと見ると、わずかに動いていた。そのさまを「蘇らんとしつゝあり」と詠んだ。虻はやがて死ぬだろう。しかしいまはまだ生きている。なんの情もなく、残りわずかな命をただ見ている虚子がいる。
大空の片隅にある冬日かな
虚子は冬日が好きだったのだろう。さまざまに冬日を詠んでいる。そのひとつ。
去年今年貫く棒の如きもの
時というものを「棒の如きもの」ととらえてみた。虚子の有名な言に「渇望に堪えない句は、単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句、無味なる事水の如き句、ボーッとした句、ヌーッとした句、ふぬけた句、まぬけた句等」(「ホトトギス」明治36年10月号)というのがあるが、これなどはまさにそうした句といえる。昭和25年、虚子76歳の作。