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後閑達雄『母の手』 好きな句と鑑賞

後閑達雄さんの第二句集『母の手』(ふらんす堂、2017年刊)の特に好きな句を読みます。『母の手』は私が初めて読んだ後閑さんの句集で、特に思い出深い句集。角川の『俳句年鑑 2021年度版』の後閑さんの俳句を見て初めてお手紙をお送りしたお礼に、後閑さんからご恵送いただいたものだったようにも、あるいはその後、少し親しくなってから、私が図々しくも後閑さんの句集を要望してお送りいただいたものだったようにも思いますが…いまとなっては確かめる術もありません。


雛あられレジの所に置いてある

雛あられがレジの所に置いてあることのどこが面白いのかといぶかしむ人もいると思う。わかる人にはわかるという類の句かもしれない。ただ、こういうのはなかなか説明しづらい。また、説明してわかるというものでもないかもしれない。が、自分が感じるところを仮に説明してみるなら、雛あられがレジの近くに置いてあることはよくあって、買い物のたびに、目にする。買おうかなと思ったりする自分がいる。大抵は買わないのだが、買おうかなとちらと思ったりするのだ。雛祭の時期、スーパーなどに行くと、そういう心理やそういう状況が心のどこかにある。「あ、また置いてある」と。この句はそういう心の動きを言わずに、ただ事実として「雛あられがレジの所に置いてある」とだけ言った。それによってレジに行くたびに感じるもろもろの心境を思い出す。そういう句だと私は読んでいる。またちょっとしたことだけれど、レジのそばのあの商品がごちゃっと置いてあるスペースを「レジの所」としたのもいい。思うに、こういう句こそ、俳句でしか表せない句の一つではないかと思う。後閑さんの全句の中で一番好きな句かもしれない。

春泥や靴の形に水たまり

ちょっとした発見。靴の形の水たまりはなんだかのどか。

目の前の大きなお尻潮干狩

潮干狩をしていたら、前の人の大きなお尻が目の前にあったという句。まるで自分の目の前に大きなお尻があるように実感させられるのは、「大きな」「お尻」など、どちらかといえば俳句っぽくない、日常の、飾り気のない普段の言葉で書かれているからなんだろう。潮干狩にいそしんでいるそのお尻は生き生きとして、とても楽しそうだ。だからこそとても「大きな」お尻に見える。この「大きな」にはそんな生命感がある。やはりこの句は「大きな」がいいんだろうなと、そう思う。とても好きな一句。

猫の子の片目遅れて開きけり

細かいところに目をつけた。「片目」であるところがまたいい。「遅れて」が春の感じを増している。

冷蔵庫中に小さき部屋のある

冷蔵庫は上段、中段、下段、野菜室など、いくつかの「部屋」に分かれている。この「小さき部屋」とは、そういう部屋の中にさらに分けられているスペース(トレーが引き出せるようになっていたりする)のことだろう。それがどうしたという人もあるかもしれないが、作者はそういう小さなスペースに親しみを抱いていたんだろう。第一句集にも冷蔵庫の句「冷蔵庫まづは卵を並べけり」があった。きっと冷蔵庫という季題が好きだったんだと思う。

肉食の大きな蟻や秋暑し

「肉」と「秋暑し」がなんとも響き合っている。「肉食の大きな蟻」がなにかの獲物を食らっているところか。

西瓜切る人の数より多く切る

4人で食べるのに5つに切るということか、などと思ったけれど、いやきっと適当に多く切るってことなのだろうと思い直した。たとえば4人で食べるのに、一人二切れになるようにするには8つに切り分ければいいのだが、それをなんとなく多めに、適当に切って、9とか10とか、とにかく8つ以上に切ったのだと。それでたくさん食べたい人はたくさん食べればいいと。そういう適当さ、おおらかさに可笑しみを感じている句だと読んだ。後閑さんの家庭では親がそういうふうに、子供に多めに食べさせるという切り方をしていたのかもしれない。それを懐かしんでの句かもしれない。

虫売の立てば大きな男かな

しゃがんで虫を売っている男が立ち上がると、思いもよらぬ大男だったという。その驚きを詠んだ。「虫」なんていう小さな、儚いものを売っている男が屈強な大男だというのはやはり何かしら意外性がある。

アパートにフレッツ光小鳥来る

「フレッツ光」が俳句の中に入っていてこんなに違和感がないとは。「フレッツ光」→「小鳥来る」の流れがとても気持ちいい。

実験用マウス新年迎へけり

「実験用マウス」という言葉がもう物悲しい。それが新年を迎えた。新年を迎えることは人間の感覚からすればめでたいことであるが、実験用マウスにとっては少し命が延びたということ以外の意味はない。年末年始には実験が行われなかったために命が長らえた。けれども休み明けになれば命の終わりがすぐそこに見えるようになる。もちろんマウスはそのことは知らない。とはいえ人もマウスと同じようなものなのかもしれない。なにかそういう諦観めいたものを感じる。

雪兎そばに小さき雪兎

大小の雪兎がある。作者はそれを見て親しみを感じている。雪兎はやがて消えてしまうだろう。そこに親子の姿を見ているのかもしれない。


なお、裏表紙に記された後閑さんの自選10句は以下の通り。私の好きな句と三つ重なっています。少しうれしい。

雛あられレジの所に置いてある
啓蟄のよごれた顔でこんにちは
目の前の大きなお尻潮干狩
母に腕噛まれてしまふカーネーション
先生がダリアの前で立ち止まる
手打ちそば秋の風鈴鳴り出して
虫売の立てば大きな男かな
よく拭きし眼鏡を母に菊日和
鯛焼に鯛は入つてゐないけど
今日も俳句ありがたうです日脚伸ぶ

句集『母の手』より、作者による自選十句

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