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岸本尚毅『小』 好きな句と鑑賞

岸本尚毅氏の第五句集『小』(角川学芸出版、2014年)を読む。私が岸本氏の句集をリアルタイムで読み始めたのはこの句集『小』から。前句集『感謝』からは句風が結構変化しているように自分には感じる。


たつぷりと水ある春の氷かな

「たつぷりと水ある」は意味としては「氷」にかかるのだろうけれど、「たつぷりと水ある春」というように直接「春」に接続することで、春のみずみずしさ、淡さ、明るさといったものがそこに生まれる。そしてそれが一体となって「氷」にぶつかっていくことで、この「氷」がいかにも春らしい氷の感じ――それは「薄氷」とはまた別の、豊かで明るい氷として見えてくる。そんなふうに自分には感ぜられる。

春めくやどこへゆくにもこの姿

「この姿」とはどんな姿だろう。気取らない、ちょっとだらしない、普段着。「社会人」としての役割を終えて、きままに、わずらわしい服装にもあまり気を遣わずにどこへでも行ける。そんな自由さ、心の軽さが「春めく」なんだろう。

人生は長からねども潮干狩

人生の一場面として潮干狩を楽しんでいる。それをことさら仰々しく「人生は長からねども」といってみた。「理屈」の言葉であるけれども理屈としては働かず、むしろ潮干狩の景を喚起するものとして働いている。こういう措辞が岸本氏らしい。

猫の如く色さまざまの浅利かな

言われてみれば浅利の色は猫っぽいところがある。浅利と猫、これがくっつくのが非凡。

上の方暗くなりつつ春障子

春というものにある暗さ、それが障子明かりのなかにある。そういうほの暗さのようなものを障子のうちにいて感じている。しかしその気分だけに流れないのは、「上の方」という措辞のためだろう。この「上の方」がとてもいい。「上の方」とはいったいどこなのか。これも漠然としているにもかかわらず、「上の方」といえば誰にでもわかる。そういう言葉だからこそ、句を邪魔しないでしかも働いているのだろう。

夏楽し蟻の頭を蟻が踏み

蟻の頭を蟻が踏んでも別に楽しくもなんともない。にもかかわらず、「夏楽し」といわれると、そうかもしれないと思ってしまう。些細な蟻のことも楽しく思えてくる夏という季節の可能性。それがこの句にある。

秋の蠅一度に二つ飛びにけり

「一度に二つ飛」ぶのはやはり「秋の蠅」でこそだとは思うが、そもそもこの句で描かれているものが面白いかというと何も面白くないという人もいるかもしれない。私はとても面白い句として読むけれども。

うす暗く花粉の多き春なりし

「うす暗く」「花粉」「春」である種の春の感じを出している。景はほとんどないといっていいけれども、これもまた春だという季感は強い。

その昔栄えし港ラムネ飲む

人気のない港。照り付ける日ざしは強いがいやではない。「ラムネ」だからこその憂愁。

彼岸花糸を垂らして終りけり

よく見ると、確かに彼岸花は「糸を垂らして終」る。ちょっと情けない感じで。言われてみて初めて、確かにそうだなあと、見ているのに見えていないことがあることに気づかされる。これもそんな発見の句。

しぐるるやをかしき文字のトイザらス

「トイザらス」の看板の文字も、確かに言われてみればおかしい。「トイザらス」の店舗は、郊外の、周りに何もないようなところにあることが多い。そんな郊外の少し淋しげな「トイザらス」の看板の文字を、肌寒い時雨の降る中、ぼーっつと遠くに見ている感じ。虚子の「川を見るバナナの皮は手より落ち」のぼんやり感に通ずるものを感じる。

寒晴や見下ろしながらその町へ

きりっとした青空の寒晴れの日。小高い丘のようなところにいて、そこから眼下に広がる町を見渡している。これからその町へと下ろうというのだ。冬の透明な空気の中に広がる町の姿が輝かしい。

棒で打つて低き音する氷かな

氷を棒で叩いたときに低い音がした。短い、低い音だ。その音のことのみを言った。他は何もない。けれどもそのゴンという氷の短い低い音はいかにも寒い感じがする。余計なことをいっていないだけに、余計にその寒い、いかにも氷の音が伝わってくる。句集『小』の中で一番好きな句かもしれない。

なめくぢの頭の方がやや白し

なめくぢについて、どちらが頭かなんて考えたこともなかったぞ。

立つたまま眠る如くに日向ぼこ

そういう人っている。少しの間、ちょっと上向きになって目をつむっている。

冷房の部屋に日当り皆昼寝

明るい日ざしの中、よく冷えた部屋での昼寝。雑魚寝のようなものを想像しても、あるいは会議室のようなところで寝ている人を想像してもいいかもしれない。幸福感。

かすかなる腐臭や冬日明るくて

「かすかなる腐臭」とは肉か魚かあるいはチーズか。自分は海沿いの町の魚系のかすかなる腐臭を想像する。穏やかな海の町、冬晴れで空は明るさに満ちている。「かすかなる腐臭」という少しの濁りがあることで、明るい冬日の透明感が際立つ。そんな感じがしないでもない。



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