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岸本尚毅『健啖』 好きな句と鑑賞
岸本尚毅氏の第三句集『健啖』(花神社、1999年)を読む。
冬構いくつも神を祀りたる
古い大きな民家の冬構。母屋、離れ、神棚がいくつかある。敷地内に小さな祠のようなものもあるのかもしれない。
また一つ風の中より除夜の鐘
除夜の鐘を聞いていた。しばらくしてまたごーんと一つ。それを「風の中より」と叙した。鐘の音が消えると、あとは風の音ばかり。そんな静かな夜更けの感が強まった。
雑然としてあたたかに冬籠
冬籠している居間が雑然とちらかっていて、それがいかにもあたたかな感じがするという。よくわかる感覚。
赤富士や蜂の骸を掃きながら
夏の朝、死んだ蜂を掃きながら、珍しい赤富士をうっとりと見ている。小さな蜂の死と赤富士という大自然の神秘的な姿が対比されている。そこは人間の感傷といったものの入り込まない世界。命の涼しさのようなものを感ずる。
ぬかるみのあれば吸ひつく落花かな
落花がぬかるみに落ちるときを「吸ひつく」と叙したことで、その瞬間に薄い花びらに水分が染みとおってゆくさまが想像される。ぬかるみに次第に色を失ってゆく落花。やがてぬかるみと一体になるのだ。
はりついて消えかかりたる落花かな
前句のその後の経過として、落花はほとんどぬかるみとなり、落花はあるかなきかのうすぼんやりとしたものとなっている。
火を焚いて春の寒さを惜しみけり
春の寒さを惜しむというのはあまりないように思うが、この句を味わってみると、焚火をすることで春の寒さが余計に感ぜられた。そのいま余計に感ぜられた春の寒さをしみじみ味わい、そしてその場で懐かしんでいるような、そんな心地がしてくる。
利根川のもうすぐ海や桃の花
利根川の下流、広々とした川の対岸に桃の花が咲いている。海に近い空の大きさ、日にきらめく川面、そして桃の花の華やかさ。のどかな春の昼だ。
通夜の客籠の雲雀をのぞき込む
句意はそのまま。通夜の客が籠に入っている雲雀をのぞき込んだと。もちろん、そういうことは現実にありえる光景であり、のぞき込んだ客には何の意図もないのだろうが、そのひとコマを切り取って句にしたことで、妙な不気味さが生まれている。死の国へ旅立った故人の残した「籠の雲雀」を、通夜の客が生者の側から見ている。なにかその「籠の雲雀」が、死と生のはざまに存在でもしていて、客はその秘密のようなものをのぞき込んでいるかのように。
そのへんに鯔の来てゐる祭かな
鯔というのは河口付近にも多く生息する魚。「そのへん」というのは河の岸辺から見えるあたりのことでしょう、そこに鯔が沢山来ているのが見え、岸では祭が行われている。鯔のにぎやかな群にもどこか祭感があるか。
鱈の皮なほつながつてゐたりけり
念を入れて何度か切ったのに、それでも鱈の皮が切れずに身がつながっている。その情けなさ、がっかり感を自分でちょっと面白がっている。
月祀るそれぞれ髭の野菜かな
月見の供物の野菜、たとえば甘藷や人参、ササゲ、といったものから髭のようなものが伸びているさまを詠んだもの。さりげない可笑しみがある。