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「〜しない」ことが目的ではなく

ちょっと「ちゃんと書く」ことを大切にしていきたいなと。これからのことを考えると、改めてnoteを続けていこうと思う。

ボクは「教師のいらない」シリーズだけでなく、「叱らない指導」も出しているせいか、「〜しない」ことを大事にしているようなイメージを持たれることがある。でも、別に「〜しない」ことが目的なわけじゃないし、「これまで」を否定して「これから」を語ろうとしているわけでもない。

教師1年目から、子どもたちの学びをじっくり見て、教師のあり方や指導・支援を振り返ることを繰り返してきた。そうしているうちに、「どうすれば子どもたちにとってよりよい学びになるのか」「どうすれば必然性のある学びや活動になるのか」を考えることが、いつの間にか日常になっていた。そんなことを続けていると、「よくある指導法」や「こうすべき」と言われるものに、どこか違和感を覚える場面が増えていく。

向き合っていたのは、「子どもの学びをじゃましている自分」「子どもたちにとって不自然な指導をしている自分」。そのたびに「なんか違うな」と感じ、試行錯誤を繰り返してきた。「子ども主体」を目指していたわけじゃない。ただ、目の前の子どもたちの学びがよりよくなるには、どうすればいいのかを考え続けることが大切だった。そうするうちに、自分自身の「学び」や「生きる」ことへの考え方も、少しずつ変化していく。

だから、悩むことも多い。「これでいいのか?」と迷うこともある。でも、その迷いが次の学びにつながっていく。「うまくいった」と思えたことも、しばらくすると「でも、本当にこれでいいのか?」と新たな問いが生まれる。その繰り返しだ。

教師は必要だし、必要な場面では叱ることもある。ただ、「教師は教えるべき」「叱るべき」と決めつけてしまうのなら、そこは一度立ち止まって問い直したほうがいい。結局のところ、大事なのは、目の前の子どもたちがどうか。そこをじっくり見て、考え続けること。それが何より大事になってくる。

単純に「〜しない」という部分だけを取り入れてもうまくはいかない。「じゃあ、何をするのか?」を考え続けることが求められる。それぞれの先生が、自分なりに試しながら「こうしてみよう」「これが大事なんじゃないか」と問いを持つことが必要になる。「〜しない」の奥にあるものを掘り起こし、自分の指導や学びとつなげていく。その積み重ねが、次の一歩につながっていくはずだ。

どこかに正解があるわけではないし、誰かのうまくいった方法をそのまま真似してもうまくいくとは限らない。でも、そのエッセンスを取り入れながら、自分なりの「こうすれば…」を更新していくことはできる。

教師自身も、「個別最適な学び」と「協働的な学び」を大切にしていく。自分の軸を持ちつつも、学びや価値観を絶えず再構成する。その中で、また新しい問いが生まれる。

子どもたちが試行錯誤しながら学ぶように、教師も試行錯誤しながら学び続ける。終わりがないからこそ、続ける意味がある。悩むことをしんどいものではなく、「次につながるもの」として捉えられたら、それだけで少し見える景色も変わるんじゃないかと。

問い続けること。その先に何があるのかは、やってみないとわからない。でも、それがおもしろさなんじゃないかなと。

そして、また次の学びへ。

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