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「人はダラダラして、心をもとの状態にリセットする」・・・役を演じている人には絶対に必要

「ヒトはダラダラする事で、心を元の状態にリセットしている。」
という記事。
筆者の高須賀さんはこのnoteでも書かれているようだが、この記事は無いので、Books&Appsからリンクを張る。

とてつもなくよくわかる話。
僕もダラダラしているなあ。
ダラダラと集中は1セット。

ダラダラの時間に一つ仕事が仕上がるだろうとも思うが、
無理にやろうとしても、「何をしたらいいの?」
となって、仕方なくいつでもできる作業をしたりする。

「集中」は、作業ではなく、「気づきをことばにする」こと。
もちろん、集中して作業をした後で、ダラダラと自分の心の標準状態に戻そうと、自然にしてしまうが。

「気づきをことばにする」のを「Create」と訳すのはあまりに大ざっぱだが、頭の中に漂っているものが、あるべきところに落ち着いていくにはダラダラが必要。
それを、「思考」で何とかしようとしても、抜け落ちやうまい表現ができなくて、結局後で自分でフォローが必要になる。


また、年賀状で書いたことだけれど、

「役割を演じている」と、

職場に行ったら、お茶を飲んでおしゃべりして休憩していても、心は緊張状態にある。

その場で本当に息抜きできている人はそれでいいけれど、緊張状態にある人は、ダラダラにはならない。
間合いを読んだり、思考がフルで働いている。

だから、帰宅後は訳がわからなくなる。休日は、回復のために使い切ってしまう。

で、翌日からまた仕事だとすると、本当の休息の時間がない。

「役割を演じる」のが、実家~職場の全般にわたるものだったら、常に緊張状態。体力の限界まで頑張って、最後は力尽きてしまう。
「役割を演じている」のを「ふつうだ」と思われてその場にいることを受け入れられているのだとすると、キツイ。

職場はまだ、別のところを探せばよいが、家族は替えられない。
世間的な常識では、実家や家族は「くつろげる場所」とされている。

この感覚は絶対に理解されない。「理解してもらう」ものでもない。
誰かを非難したいわけでもないし、社会で浮きたくもないから、僕がその苦痛を被ることになる。

なので、こういった後には、すべてを脱ぎ捨ててダラダラできる時間が必要なのだ。

「心をもとの状態にリセットする」のはとても大切。

※思考の領域の話は、「理解してもらう」ことが可能かもしれない。
 いやいや、思考領域の話も、なぜか感情や常識や相手の努力のはなしでぶった切られてしまう。
 「自分の感覚」のはなしを、相手の感情や常識、相手の努力の話でぶった切られ、心が傷だらけになりながら、「理解してもらう」ことに重要性はあまりないなあ。
 心が壊れて、同情されるのも望むところではない。
 だから、理解してもらうよりも、自分を労わりたい。
 人が得たいものには、「目標達成」を目指すものと、そんなことをしなくても手にしていないといけないことがある。「目標達成」をサポートできる人の中には、そうでないものをサポートできる人もいる。相手を見定めて、頼ってほしい。

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