60歳代、70歳代が「報道されていない真実」を知っているという不思議
日本の国会議員の選挙、都道府県の首長選挙について、「なんでだろう」と不思議に思うことがあった。
海外では、アメリカ合衆国大統領選挙については「なんでだろう?」と思う程度には知っている。が、ここでは日本国内のみについて思うこと。
以下の年代というのが本当に、その年代の意見を代表しているのか定かではないけれど、こんな傾向がありそうに感じる。
あくまでも仮説です。
(本当は、直接インタビューしたり、大規模なアンケートをしないとわかりません。さらには、答えない人、正直でない人からもきちんと本音を聞かないといけないのだけれど)
60歳代、70歳代
ニュースでは、60代、70代の人が、「報道されていない真実」という言葉に飛びついている印象がある。(戦後の昭和20年代、30年代生まれ)「YouTubeで真実を教えてもらった」って、かつての雑誌ムーや東スポを本気で信じてしまっている人や、新興宗教団体の信者と同じことを言っている。
(それだけではなくて、昔から経営者の話しの中に「実は裏の情報で・・・」というのがあった。「儲け話を逃さない」という本能的なものではある)
「今のままでいい」と思ってきたのにそうじゃなくなって、「信じられなくなった」と言っているだけなのだが。
10歳代、20歳代(、30歳代)
10代、20代(、30代)は、「われわれは損してばっかりだ」「正解を教えてくれる、信じられるものが欲しい」「奪われているのだったら、奪い返さなければ」だろうか。
40歳代、50歳代
両者の間の世代(40代、50代)は、「俺らの責任じゃないし」「われわれも被害者」と言いそう。「バブルー崩壊ーバブルー崩壊」の波ばかり。その間に、大きな地震、津波といった天災や感染症の危機もたびたび起こって、「このまま行く」「成長する」という未来を想像できない。それに効率化を言われて仕事の密度と求められるレベルは高くなったけれど、給料は上がらなかったし。正確にはわからないが、うまくやっている政治家は税金から出たお金を懐に入れているようだし。というところか。
まとめ
まとめると、どの世代も被害者意識と「正解を教えてくれて力強く引っ張っていってくれる人が欲しい」か。
その結果、「力づくで奪うことにも正義があるように感じている。そうしないと生活さえできないじゃない」。
どこか他の国のことのようにも思えるが、日本のこと。
「マスコミのことを信用できない」との声もある。それは、YesもNoもどちらもある。
「マスコミは、公正・中立な報道をしないと、免許を取り上げ、もしくは取材できないようにする」と、正義のような言い方で、監視される権力が、権力を監視する立場の者の手足を縛っていることも知っておいた方がいい。
そういえば、最高裁判所の裁判官を誰が任命するのか、という話もある。
一方で、インターネットは「自分が信じていることを主張するだけの場」「信用されるのは、事実ではなくプレゼン上手と口コミ上手」。
マスコミも政府も政党もインターネットも、自分に不利なことは見えないようにして、観客受けがいいものだけを出す傾向がある。
本来嘘が混じっているのはインターネットだけだったが、本当の嘘も「良いモノと誤認させる嘘」も政党、政府にも量が多くなってきていると感じる。(あくまでも印象の話)
議論の様子を知る機会が多いのは国会。
政府が「質問されたら、事実をすぐ出して」議論した方が、
「より良いモノにしようと、いろいろな立場からの、本当に議論が必要なものに時間をかけられるのに」
とわかるはずなのに、事実を出さない不思議がある。
そんな「正直な議論がない」のが、すべての世代から『社会に』信用を無くしているのかも。
事実をすぐに答えない政府に答えるように言うのを「いじめている」と感じる人もいるようだから、議論は難しい。おそらく義務教育時代に身についた考え方なのだろうけれど、複雑に絡まった思考を解きほぐしてほしいと願う。
それと、「(自分に得になる)いい政策」と思っても、自分の立場で計算したり、「社員と経営者」など反対の立場から見るとこれはどんな意味があって、持続性があるのか、と考える習慣が必要かなあ。
政策などを判断するときには、「1回だけのお小遣い」よりも「(自分が)一生食べていけるか。衣食住があるか」を考えた方がいいし。
20歳代の人も20年後には40歳代になり、さらに20年後には60歳代になる。
20年って、結構あっという間。見た目や身体の不調は確実に増えるけれど。
自分も当事者になるので、「そんなの知るか!」は言わない方がいい。
将来を考えたら、たいがいの場合は、自分がいま信じているものを否定することからはじめた方がいい。「正常バイアス」で、いい面しか見えていないはずだから。
※余談:インターネット
本来インターネットは、技術者の情報交換、技術がある人の個人的なことのホームページ公開だったから、基本的に嘘はなかった。
普及すると、表も裏もある社会がそのまま引っ越してきた。
安心・安全のために考え方を理解しあえる人が集まることになる。
すると、「何を信じるか」という「尖がった宗教」的になる。
「いろいろな宗教の人が暮らして会話できる街」を意識して目指したい。
(「宗教」は、「考え方の違い」「大切にしているものの違い」をたとえたものです)
※余談:新聞と週刊誌
最近は、インターネットでの発行に移りつつあるが、新聞、タブロイド新聞、週刊誌といったものがある。
一般紙、男性が読むもの、と限定しておく。(女性週刊誌の流れを全く知らないため)
新聞、タブロイド新聞、週刊誌となるにしたがって、ゴシップ性、妄想記事が増える印象がある。(その中にも、正統派の事実のみを書いた記事もあるが、ここでは触れない)
でも、明治期~昭和中期までの新聞は、女性記者に風俗業に潜入取材をさせるような、今のタブロイド新聞、スポーツ新聞的な面もあったという。それが売り上げに貢献したというから、新聞社、読者の両方が作り上げたものだった。
戦時中の大本営発表は、今となっては「2度とそのようになってはいけない」と言うしかない。
だから、「マスコミは信用できない」の前には「常識を知るには新聞を読め」「NHKのニュースを見ろ」があり、「信じよう」があり、その前は「情報を知れる幸せ」だろうか?
多くの人はマスコミに何を求めているのか知らないけれど、私は新聞はコラムや寄稿を読むためのもので、新聞、インターネットで社会の動きの全体を捉えている。儲け話を誰よりも早く知るためではないので、これくらいでいいのかなあ、と考えている。