【エッセイ】エレベーターで扉付近にいるのに出入りを管理しない人とは、生きているリズムが合わない
自分は本来、だらしがないし、怠惰な人間だと思っている。
だからこそ、「待ち合わせ時間に遅れない」「提出物の期限を守る」「挨拶はする」のように、一般常識は守るように心がけている。
これは当たり前のことではあるし、自分のことを真面目だとは思わない。
提出物の期限を守るとは言っても、やり始めるまでに時間がかかることも多いし、提出日の前日に慌ててやることだって多い。宿題の進め方は学生時代から何も変わっていない。
朝だって全然起きたくないし、大人になっても、どこでもドアは欲しいし、瞬間移動を覚えたい。
出来るなら、いつまででも寝ていたいし、ひたすら引きこもっていたいとすら思っている。
そんな、堕落した生活を理想としている自分だが、変なところで細かかったり、せっかちだったりするところがある。
我ながらせっかちだなと思う瞬間、それは、自分が意図していない、故意ではない待ち時間が発生した時だ。
自分でダラダラと時間を無駄にしてしまうのはいいのだが、自分以外の要因で時間を浪費した時に、無駄な時間を過ごしていることに、強い憤りを覚えてしまう。
これは、子どもの頃からそうであり、誰かと買い物に行った際、ただ待つことが苦手であり、我慢できずにフラフラとどこかに行ってしまい、探され、結果として、余計に時間を無駄にしてしまう、ということが多々あった。
大人になってもこの気質はそのままで、生活している中で遭遇する、不意なタイムロスが嫌で仕方がない。
自分の中でその代表的なのが、エレベーターの扉付近でボーッとしている人によるタイムロスだ。
もちろん、エレベーターの扉付近にいるからといって、必ずしも扉の開閉の係をしなければいけないわけではないことは分かっている。
ルールではないし、マナーの範疇というか、暗黙の了解くらいの感じだろう。
誰かが乗ってきそうだったら「開」ボタンを押してあげる。
もう誰も乗って来なそうだったら「閉」ボタンを押す。
あくまでも、性善説よろしく、人の優しさの上に成り立っていることなのは重々承知。
それでも、誰も乗って来ないエレベーターの扉がただただ開いている数秒の時間が、この世で最も無駄な時間の一つだと思ってしまい、耐え難いとまでは言わないが、苦痛なのだ。
これは、急いでいるわけでなく、時間に余裕があってもそう思ってしまう。
この、たかだか数秒の時間で、何が変わるわけでもないのは理解しているが、この世の全てはチリ積もであり、人生を終えた時に、「今までにただエレベーターの扉が開いているのを待っている時間」を算出すると、結構な時間を浪費しているような気はしている。
何事も効率がいいのに越したことはないが、自分はそこまでの効率人間ではないし、きっちりしているつもりもない。
それなのに、エレベーターが開いている数秒が待ちきれないという、変なせっかちさを持っている。
その理由として、時間を無駄にしているというのは前提としてあるが、もう一つの理由として、ボタンの目の前にいるのに、スマホを見て何のボタンも押さない人に対する苦手意識があり、強い言葉で言うと、嫌悪感を抱いてしまうというのがある。
自分の中で、エレベーターの扉の開閉ボタンの管理が出来ない人というのは、「周りが見えてない」→「配慮が足りない」→「思いやりがない」というふうに見えてしまい、「この人とは生きているリズムが合わないんだろうなあ」と思ってしまう。
そんなのは偏見だと分かっているし、いざ話してみれば仲良くなれる可能性はおおいにある。
ただ、こちらが勝手に、エレベーターの扉が閉まるよりも前に、心のシャッターを下ろしてしまっているというだけ。
こんな小さなことでイラッとしたくはないが、この性分はまだまだ変わりそうにはない。
ちなみに、他の、自分とは生きているリズムが合わないと思う人として、「駅のホームや階段で、進行方向と逆に進んでいる人」、「コンビニなどのレジで、スマホを見ているのに決済まで時間がかかっている人」、「カードゲームなどで、もう何をしても負ける状態なのに、自ら降参してくれない人」などなどがいる。
挙げ出したらキリがない気がしてきたし、それこそ、そんな人たちのことを思い出そうとしていることが、時間の無駄に思えてならない。
これからも、無駄な時間を過ごすことはあるだろうが、そのことでイラッとしてしまう時間はなるべく減らしていきたい。私はただ、平穏に、静かに暮らしたいだけなのだから。
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