私の人生の、とある記録
ほとんどの人は、親しくしている人が不愉快になるようなことはしたくないと考えているはずだ。
ただ無意識のうちに、だれかを不愉快にさせているのだとしたら。
不愉快な気分になってしまった人は、どうやって気持ちを処理すれば良いのだろう。
3年ほど前、ある友人が「友達とその旦那さんのうちに呼ばれてるんやけど、行きたくないんよね」と言った。
既婚者の私は彼女の気持ちを慮ることができなかった。
「そうなんやね」と流してしまったことを未だに後悔している。
いま、私は子育て中の友人に「子連れだけど会おう」と言われても行くことができない。
ほんの1年前まではこんなことがなかったのに、突然、そうなった。
自分の気持ちの舵を取ろうとしているのに、うまくいかなくなった。
理由はわからない。
私は子どもを産まない選択をしている。
一生、産まない人生を歩もうと思っている。
その気持ちに変わりはない。
子供を見るとどう接していいかわからなくなるときがあるが、恐らく嫌いではない。
それなのに、突如として私は親子∔幼い子どもと関わることができなくなった。
そして、もともと苦手だった子育て中の友人たちの会話に埋もれることに、吐きそうになるほどのストレスをおぼえるようになった。
私は3年前の友人の気持ちがわかった。
うらやましいとか、そんな簡単な形容詞でくるむことができない重しが、私の心に乗っかって、そのまま動かなくなったのだ。
もし私が、子どもを産みたいと強く願っていて、それでも授かれなくて不妊治療をしていた場合、自分も他者も理由づけしやすいし、周囲は気を遣ってくれたはずだ。
でも私は産まない選択をしていると皆が知っている。
ある日、子連れの親族が訪れた。
夕方まで楽しく会話をした。
しかし夜になって、私はトイレに駆け込み吐いてしまった。
呼吸が荒くなり、耐え切れなくなった私は声をあげて泣いてしまい、自分の心の奥底に、幼児期から変わっていない自分がいることに気づいた。
この幼児期の私が泣いているのか、いまの私が泣いているのかもわからないまま、泣き疲れて横になった。
突如として親子∔幼児と接するのが難しくなってしまったのはどうしてなのか自分でもわからなかったし、今も正確に把握できていない。
いろいろ考えてみる。
たとえば、子どもがいない私に対しての他者からの心ない言葉が積み重なっていって、私は子育てに関することに拒否感を示すようになってしまったのかもしれない。
「母性、ないの?」
そう言われたときのことは記憶にこびりついている。
人間なのに、動物なのに母性がない私は、母性の感じられる場に行くことが耐えがたくなってしまったのかもしれない。
ただ、それも可能性のひとつにすぎない。
とりあえずは自衛をしなければ。
子育ての話になったらどこかに逃げるか、逃げ場がないなら「その話、ちょっと苦しいかも」とはっきり言うか。
そんな私は、子育て支援が叫ばれる世の中で必要がない存在なのだろう。
それならそれでいい。
ただ自分のこころを守らなくてはならない。
ふたりの妹が、母になった。
母になる前の彼女たちが恋しい。会いたい。
母になった彼女たちに会うのがつらい。
誰かから責められているような気がする。
妹たちは当たり前のように産んだのに、
あなたはどうして産まないの?
「母性、ないの?」
時間が解決してくれることを信じたい。
子育て中の方々を批判するつもりはまったくない。
ただ、これは私自身の問題ではあるが、言葉にしないだけで、同じような思いを抱いている人もいるのかもしれないと感じている。
私は産まない人生を歩む。
その途中で、親子∔幼児を見て辛くなることが起きた。
これは人生の中の記録として残しておきたい。
この記事を削除することがあったとしても、自分のこころの中のメモに。