開かずのコインロッカー
ルーズな芙美はいつもギリギリだった。
この電車を逃しても、なんとかはなる。次の電車で学校まで走り抜けば遅刻はまぬがれるが、朝からそこまでの体力消費は避けたいところ。
頼む、間に合って!と、心の中で祈る。
だが、無常にも目の前で電車の扉が閉まった。
どうせこんなことだろうと半ばあきらめてもいたが、目の前に財布が転がり落ちてきて驚く。
間一髪で乗り込んだ目の前の男子高校生が落としたらしい。
「あのう……!」
思わず声をかけだが、もう電車は動き出してしまっていた。
男子生徒は呼びかけにも気づかず、乗り込んだそばから車両の中を前方へ移動している。
ずりかかったズボンの後ろポケットから音も無く転がり落ちたので気づかなかったらしい。
財布にも、芙美にも、まったく気にとめていなかった。
ひとけもなく、ホームには自分と財布が残された。
男子生徒が落とした財布は折りたたむタイプのもので、落とした拍子に開いて内側が丸見えになっていた。
すぐ目にとまったのは、番号が書かれた楕円型の青いキーホルダーだった。
カードを入れるポケットに差し込まれている。
ロッカーの鍵といったところか。
どこかで見たことがあるような気がするのは、ありふれたタイプの物だからだろうか。
とりあえず落とし物として届けた方が良いだろうと拾い上げた。
札入れには千円札が三枚、小銭は五百円程度。
額は多くないが、昼食を買うつもりでいたのなら、所持金ゼロというのはきびしい。
近くに駅員が見当たらなかった。
次の電車まではまだ時間もあることだし、改札口まで戻ることにした。
そういえば、現金が入っていたら何割かもらえるんじゃなかったっけ?
同じ高校生から現金をもらうのは気が引けるが、それより、思いのほかカッコイイ人だったらどうしようなどと妄想しているうちに改札口までやってきた。
「あ、これか……」
と、すぐに番号札の正体に気がついた。
改札を出た正面に年季が入ったコインロッカーがあった。
見たような気がするどころか、毎日これを目撃していたのだった。
こんな田舎町の、旅行用バッグも入らないような小さなコインロッカーを、誰が何の目的で使うのだろうと前から思っていた。
ふつふつと、よこしまな考えが湧き起こる。
いけないことはわかっている。
でも、あの小さなコインロッカーになにを預けているのか知りたいという衝動に駆られた。
定期券で通学しているから、改札を何度出入りしても問題はない。
芙美は吸い寄せられるようにコインロッカーの前に立っていた。
彼の財布に入っていたのは「36」の札。
やはり、そのロッカーは使用中で鍵がなかった。
芙美は駐輪場の辺りからずっと彼の後ろを走っていたので、彼が電車に乗る寸前にこのコインロッカーを使用したのではないというのはわかっていた。
だから、それよりも前からこのロッカーを使用しているということになる。
今朝は時間がなかったから取り出せなかったのだろうか。
それともずっと預けっぱなしなのか。
古いコインロッカーだから、使用料は1回100円で、時間が経過しても料金が加算されないタイプのものだ。
あまりに日数が過ぎたら取り出されてしまうことがあるかもしれないが、彼がこのカギを持っているのだから、まだ彼が預けた物はこの中に入っているはずだ。
そして彼は今、出発したばかりの電車の中だ。
すぐにこの場所へは戻ってこられない。
開けてちょっと覗いてみたところでバレはしない。
盗むわけじゃないんだもの。
また100円を入れて元の通り鍵をかけておけばきっと大丈夫。
「36」のロッカーは芙美の胸の辺りにあり、開けやすい位置にあった。
手にした財布から鍵を抜き取ってロッカーを開けた。
一瞬、なにも入っていないのかと思った。
少しかがんで奥まで見る。
小さな四角い空間には、折りたたまれた紙切れが一枚だけ入っていた。
内側になにか文字が書かれているのが透けて見える。
ここまできて好奇心をとめることができず、芙美は紙切れを広げた。
『きみがもしこの手紙を見たのなら、もう一度ロッカーに入れて鍵をかけ、その鍵を見知らぬ誰かに渡してほしい。さもなければきみは不幸に見舞われるだろう』
なんだこれは。
小学生の時に流行った不幸の手紙のような内容だ。
財布の落とし主がこの紙を仕込んだのだろうか。
意味がわからない。
――まぁ、それもそのはずだろう。
芙美が勝手に開けてしまったのだから。
何とも煮え切らない気分で自分の財布から100円を出して鍵をかけた。
そして元の通りに拾った財布に鍵をしまって駅員に預けた。
それから芙美はあの「36」のコインロッカーが気になって、通りかかるたびに鍵が付いているかを見るようになっていた。
そこにはいつも鍵が付いていない。
つまり、いつも誰かが使用しているのだった。
財布の落とし主が見つかったと連絡もないし、あのときの男子高校生に出くわさないかと同じ時間の電車に乗って探したりもしているが、姿を見かけない。
そもそもあのときだって彼の姿を注意深く見ていたわけじゃなかった。
どんなバッグを持っていたのかも覚えていない。
ただ、紺色の制服を着て、ズボンをルーズにはいていたぐらいしか記憶に残っていなかった。
何日か経って、ロッカーの前を通りかかると、ランドセルを背負った女の子に話しかけられた。
「これ、渡してっていわれたの」
女の子が手に持っていたのは「36」と書かれたロッカーの鍵だった。
なぜこの子が持っているのだろう。
男子高校生から預かったのか?
辺りを見渡したが、それとおぼしき男子高校生はいなかった。
朝の通勤通学の時間帯とあって、みな足早に改札を通り抜けており、誰もこちらの様子を気にしていない。
「誰から預かったの?」
尋ねても、女の子は無言で鍵を押しつけるばかり。
仕方なくそれを受け取ると、女の子は逃げるように立ち去った。
ひょっとしてロッカーの中を見たのだろうか。
次々と鍵が人の手に渡り、女の子はそれを受け取ってしまった。ロッカーの中に入っている紙を見て、誰でもいいから早く渡してしまいたかったのかもしれない。
まったく、こんな無意味なことがまだ続いているなんて。
中にある紙切れを捨ててやろうか?
現在のこの鍵の所有者は芙美だ。自分の好きにすればいい。
今度はなんのためらいもなく「36」の鍵を開けた。
やはり前と同じように折りたたまれた紙が入っている。
文面は知っていたが、なんとなく広げてみた。
『きみがもしこの手紙を見るのが2度目なら、不幸はもう目の前に迫っているだろう』
ふと気配がして振り返る。
誰も自分に関心を寄せず、足早にホームを目指す乗客ばかりだった。
もう関わるべきじゃない。
直感的にそう思って紙をロッカーの中に戻し、鍵もかけずにその場を離れた。
学校が終わって駅に戻ってくると、避けたくてもどうしてもコインロッカーが目に入ってしまった。
あのロッカーのことが気になってしかたない。
いくつかのロッカーには、空きを示す青い札がぶら下がっている。
しかし、「36」のロッカーには鍵がついていなかった。
また誰かが使用している。
ロッカーを通り過ぎようとすると後ろから肩を叩かれた。
声を上げてしまいそうになって息をのむ。
硬直して身じろぎできずにいると、その人は芙美の前に回り込んできた。
「これ、落としましたよ」
差し出されたのは例のコインロッカーの鍵だった。
以来、芙美は何者かにあとをつけられている気がして仕方なかった。
あのとき興味を持たなければ――
得体の知れない何かと交わることもなかったであろうに。
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