器の形は変わらない
自分が書くエッセイって話があちこちに行って読みづらいと思うので目次つけてみました。ご活用ください笑
noteを書く狙い
ここのnoteの場所って、なんか最初は「そりゃ書くからには、いいねほしいなあ」とかそういう欲求はないことはなかったけど、世の中にある「ちょっとした感情」に任せて「取り上げて、捨てていくありさま」を見ていくと、なんか違うなあと。
いや、それで満足するのもいいし、その人を支援していくのもぜんぜん問題ないとは思うのだけど。何というかその風景が、教祖とその信者的に見えてしまうというか笑 どうも自身は根っからのマイノリティ思考なんだと諦めてます笑
そうは言いつつも、ふらっと訪ねるあなたはどういうきっかけで訪問して(フォロワー?新着?キーワード?)、どういうきっかけで「いいね」するかは気になってしまう。(仕事柄の本質でしょうけど)
よく「写真はこういうものを入れた方が」「タイトルはこんなのが」とか知ったかで言う人いるけど、そういう技巧を凝らせば凝らすほど「あれ?これって自分が書きたいこと?」ってなってしまう。
やっぱり書かされるようなものは書くべきじゃないと思うんですよね。
ビジネスにおける器、盛り付け
似たような話でちょっと違う観点で言うと、例えばビジネスとかでもそうだけど、儲けるための提案とお客様がほしいものって、ちょっと違う気がする。
たしかにいい提案であったとしても、受け取る人が使いこなせるものじゃないと、結果不満出るし効果も低くなってしまう。
けど提案側でありがちなのは「自分がいいものは絶対いい!」と言いがち。自分が好きなものを相手に伝えることは好きになってもらう第一歩だけど、自分が好きだから相手もきっと好きだ。というのは多分誤解。
ときどき推しの強い営業やプランナーが、ぐいぐい押し込むのを横目に見るけど、3年スパンで見たら何も残ってないものばかり笑 まあ、ひと夏のアバンチュールが好きな場合もあるのでそれは相思相愛なんでしょうね。
つまり器と盛り付けが合っているというか。
自分はおそらく、淡々とゆっくり長い間的なスケールで行くのが合ってるんだろうなと。困った。いま時代の流れは濁流でアゲインストなんだがな笑
でも仕方がない。人には決まった形の器があって、その器の中で戦っていくしかない。「器の使い方」による成長はあるけど、器の形は変わらないからね。
出町柳の風景
話変わってタイトル写真。大学時代、京阪から帰省していた関係で、出町柳駅から帰っていました。写真は最近だと観光客もいる鴨川と高野川の分岐点。飛び石の一部が亀になっています。ここにいる人たちを見るとみんなゆったりでいつも癒されます。
教祖の不幸
ここからは雑談です笑
一般人どころか昔でいうお偉方まで含み最近のヒステリックな状況は、頼まれて始めた素人教祖が、10年後に本人自身がはまっているそれに似ているような。ほんと怖い。
R18生まれ
「昭和60年生まれはS60って書くとすると、令和18年生まれって卑猥でいじめられそうね」、、、確かに笑 どうしてみんなこういうの思いつくんでしょうね笑
今日も頑張っていきましょう