上賀茂のまちなみ、感動増幅器としてのスポーツ
写真は上賀茂神社あたり。一般道に馬。日本では珍しい風景。上賀茂神社から北山通りまで抜けるあたりも京都の原風景な気がしています。小さい子供が慣れぬイベントで不安そうだ笑 でも祭りと子供の参加ってセットだよね。子供は将来の希望の象徴なのか生贄的な刹那な対象なのか気になる。
スポーツは英雄を求める装置なのか
先般サッカーの代表が選ばれていたが、過去の貢献度で選ばれたような選定にマニアな人ほど悲観的な声が聞こえてくる。「代わりにこの人を」というのは今後貢献できそうな人を推しているのだが、プロモーションを仕掛ける側の感覚で言うと...
「かわむらちゃん、いまさらベテランのA子さんを取り上げるの?いまだとさB子ちゃんとかさー若くていま勢いのある子いるじゃん。ああいう子を取り上げてさどんと推して行かないと、盛り上がらないよ(売れる、勝てるとは言ってない)」
面白いのがいわゆる識者であっても、目的の変質(勝つことから閉塞感の打破)に代わっていることに、気づいているのか気づいてないのか、そういうことを言ってしまっている。
どうも感覚的なんだけど、スポーツって「感動増幅装置」的な位置づけで、活用されて競技者もそのなかの一部に組み込まれていて、特に日本はその増幅器が担っているところが大きい気がしている。よく競技か興行かなど言われるけど、興行は増幅器を楽しみにしていく感じですもんね。すぐ○○さんに感動した!とかいうし、メディアも取り上げる、識者も知らぬうちに期待しているわけで。
最近、そういう業を踏まえておかないと、きれいごとだけじゃなと思う、雨の前の五月でした。(時間ないのでまとまり微妙)
お互いのコミュニケーション活性化のため、スキ・コメントお気軽に、よろしくお願いします。