自分らしさと付き合う
自分。じぶん。わたし。
この存在は何なのだろう。なぜ世の中には「自分」と、そうでない人たちがいるのだろう。
どうして、わたしはわたしでしかいられないのだろう。
「自分らしさ」が嫌でたまらない夜がある。
選べなかったテーマ
ペアnoteという企画、面白そう!と思ったその時にはこんなことは考えなかった。ただ書いてみたい、としか。note好きな人とゆるやかにつながれるんじゃないかという期待感もあった。
でもテーマを選ぼうとした時、選べなかった。
どれも書けそうで、どれも書けない。
どうしてだろう。おもしろそうなのに。
気になったテーマ
書けないながらも気になったのは「自分らしさ」というテーマ。
手を伸ばしたいけれど、気がひける。どうしてだろう。
数日もやもやしていたら、なんとなくわかった。
わたしはわたしの「自分らしさ」に、笑顔を向けられないのだ。
「あなたらしいね」と言われるとき
あなたらしいね。
そう言われたのは、いつだったか。近しい関係にある人は、私が何かにつまずくと、ほめるでなくけなすでもなく「あなたらしい」と言う。
わたしがわたしらしさを発揮するのは、ネガティブな気持ちのときだと思う。深く深く落ち込んで、気にしなくていいことまで気にする。
沈むところまでゆっくり沈んでいって、やがて少しだけ体勢が変わる。水面の光が少しだけ見えて、「戻らなくちゃ」と思う。
そのときだ。さっきまで暗い淵だった場所に、ぽとんと一滴、水が落ちる。
滲んで、黒がすこし薄くなって、呼吸がすこし、ましになる。気道が広がった感覚すらある。
たいていは、誰かの一言に救われている。
欲しくない「自分らしさ」
書けなかったのは「自分らしさ」を前向きに語らなくてはいけない気がしたから。
きらきらした素敵な言葉に思えてしまって、“少しも寒くないわ”じゃないけれど、「自分らしさ」を肯定しなくてはならないように感じてしまった。
でも実際のわたしは、わたしらしさをなかなか肯定できない。
不寛容な自分。短気な自分。わがままな自分。
弱い自分。優しくない自分。軽薄な自分。
書いていてしんどくなるくらい、わたしがもし自分らしさを語るとしたら、どうしてもネガティブなところが目についてしまう。
「都合の悪い自分」が、まちがいなく「わたしらしさ」の一部を成している。都合の悪い自分なしに、わたしらしさを語れない。
端的に言えば、自分が誇りに思うような自分らしさが見当たらない。
かなしい。泣けてきた。こんな「自分らしさ」なら要らない。欲しくない。
物理的な涙をふいていたら、小さな赤いものが目に入った。
〇〇さんがスキしました
誰かがnoteにスキをつけてくれた。どのnoteだろう、と鼻をかみながら見てみる。
ちょうど1ヶ月前に書いたnoteだ。
そういえば今日、違う人もこのnoteにスキ送ってくれてたな。わたし、何を書いたんだっけ。
「(私は)あなたのことを見ています」「(私は)成功するかしないかに関係なく、あなたが苦しむ時も喜べる時もあなたの存在を肯定したいです」というかんじ。
こんなこと書いてたのか。
「応援」という言葉にいまいちしっくりこなくてこの部分を書き足したことを思い出す。
今の自分が、ずっと同じでいるとは限らない。むしろ、同じままなわけがない。
それも、そうね。
きっとこれからも、私の哲学は揺れ続ける。
あなたも、揺れ続ける。
だからどんな時に出会った人も、出来事も、きっとその時出会うことに意味があったのだと思えるように生きていきたい。
今この瞬間の自分。欲しくない「自分らしさ」をもっている自分。
それでも、それを含めた私だから出会えた人がいる。揺れ続け、変わり続ける自分だから、今日1日の自分は今日しか存在しない。
このnoteを今日読んでくれた人も、昨日読んでいたら私に赤い通知を届けることはなかったかもしれない。今日のあなただったから、読んでくれたのかもしれない。
「欲しくない」と必死に否定した自分らしさが、少しだけ大切に思えた。
同時に、どんな「あなたらしさ」もかけがえのないものであると思った。
欲しい自分らしさ
今日の私も、あなたも、かけがえのない存在。
そう思う一方、やはり「欲しい自分らしさ」は気になる。
私はもっとこうなりたい、ああなりたい。
あの人のようになりたい。
こんな「自分らしさ」が欲しい。
欲深いけれど、憧れの「自分らしさ」はいくらでも見つかる。
でも、それはそれでいいのだと思う。
今の自分を無いことにせず、生かしながら、本当に伸ばしたい手は精いっぱい伸ばす。
きっと近づける。私なら目指せると信じて。
憧れる限り、手は伸ばせるのだから。
厄介な「自分らしさ」も
日頃どんなふうに見られているかわからないが、わたしは基本的に臆病だ。
軽率なことをぽろっと言ってしまうわりに変なところで気を使いすぎて、「そこじゃないんだよなあ」と後から1人反省会をする。
とてつもなくかっこ悪いこんな自分が本当に情けないのだけど、このnoteを書いているうちに不思議とあまり気にならなくなってきた。
ポジティブに切り替えたわけじゃない。むしろ「自分らしさ」と付き合うのに苦労しているのは、私だけじゃないだろうなと思ったから。
太陽のようなキャラクターじゃない、自分に自信をもてない私には私なりの葛藤があるし、周囲の人々にもきっとある。
「堅物という自分らしさ」とか「誰にでも優しすぎるという自分らしさ」とか。
だれもがきっと「自分のこういうとこ、自分らしいけど嫌なんだよね」という葛藤を持っているんじゃないかと思う。
でも、「嫌なんだよね」と言いつつなかなかなくならないのはなんでだろう?
自分にも返ってくる問いだけれど、たぶんそれなりにその「自分らしさ」が好きなんじゃないかと思う。
認めがたいけれど、1ミリくらいは愛着があるのかもしれない。
どういう理由かはすごく時間をかけて考えないとわからない。
でも私は、思うのだ。
「じゃあ明日目が覚めた時から、今あなたが描く最高の自分らしさをもった人間になれるとしますね。それでいいですか?」と、もしだれかに聞かれたら。
すごく迷うけれど、魅力的なお誘いだけれど、「それはやめておきます」と言うと思う。
だってこんなかっこ悪くて情けない自分らしさをもった私だから、今まで出会えた人たちがいる。好きな人、大切にしたい人がいる。
そう思ったら、その人たちとの出会いまで失うのは絶対にいやだ。そんなことなら、今ここにある厄介な「自分らしさ」も大切にする。
そう思うのだ。
自分らしさと付き合う
今より良くなりたい。成長したい。今日はこれができた。明日はどうなるだろうか。
私を含めて、さまざまな人が「その人らしさ」を起点に人生を歩んでいく。
そこに善し悪しはなく、ただその人らしさがあるだけ。それでも、ひとりひとりの内側ではその人らしさから生まれる葛藤や喜び、出会いがある。
「こうだったらいいのに」とだれもが思う。
なんだかその姿を想像したら、美しいと思った。今ここにある自分に悩みながら、今ここにないものを想像する姿。
ないものねだりと言うこともできる。でも、ないものねだりって「ある」ことに敏感じゃないとできないことだ。
私たちは悩んでいるようでありながら、本当はその尊さをわかっているのかもしれない。今ここにある自分を理解しているのかもしれない。
今ある自分、そして欲しい自分。きっと遠く離れてはいない。どちらも「自分らしさ」だし「その人らしさ」だ。
私はこの自分らしさを抱きしめて生きていこう。
いつだって、付き合うのに苦しみも喜びもくれるのは、だれかじゃない。自分そのものだから。