底にあるのは、痛みだろうか。湖が見せてくれた疑問
少し前から、はやしさんという方と対話セッションをしています。
全3回、レポートという形でnoteを書く予定です。レポートといっても、はやしさんがとってくれたログと自分の記憶を頼りに、感想を書くだけになりそうです。
前回は0回目。はやしさんを湖のように感じたという話を書きました。今回は「痛み」について考えていくことになりそうな予感があった、という話を書こうと思います(ややこしいですね…)。
近況のはなし
ここのところ、過去のことに後悔を抱く時間が増えていました。
「高校生のとき、大学生のとき、社会人1~2年目のとき、もっとこうしておけばよかった」という気持ちが時おりやってきます。この1か月くらいはその傾向が強い気がします、という話をはやしさんにしました。
グランドルール
はやしさんから「セッションにおいて、知っておいてほしいことや、こうしたいというものはありますか」と聞かれました。
私は相手によって説明の仕方や相談の筋道を変えるので、相手に何か求めるということはあまりないつもりです。でも強いて言うなら…と思い、お願いしてみました。
思ってもいないことを口にすることが、あるかもしれません。
だから、言葉そのものをとらえすぎなくて大丈夫です。違和感があったら、遠慮なく聞いてほしいです。
振り返ってみると自分でもよくわからないお願いですが、大事なことを言った気もします。
言葉をいじってしまうから
誰かと話をしていると、たまに本心とはちがうことを言いそうになります。本心を隠したいという意味ではなく、「こう言ったほうが面白そう」「こう言ったほうが相手に理解されそう」と、言うなれば言葉のフォルムのようなものを、変えてしまいたくなるのです。
「隠したい」という意味ではなく…と書きましたが、これも何かをごまかしている気がします。本当は、隠したいのかもしれません。
はやしさんは丁寧に聴いてくれる方だという予感があったので、私の「いじった言葉」を受け止めてくれてしまう気がしました。
でもきっと「何かおかしいな」という違和感が生まれてくるはずで、だったら最初から「そういう可能性があります」と言っておくとよいのでは、と考えました。
ほしいもの、見つけたいもの
そのあとは、ほしいものや見つけたいものについて話していきました。
はやしさんの問いかけは……ログを見ていて気づいたのですが、私の言葉よりも、はやしさんの相槌や問いかけのほうがたぶん重要なのです。
いただいたログでは、問いかけが簡潔に書いてあって、私の言葉が丁寧に記録されています。それはそれでもちろんありがたいのですが、レポートを書こうとすると、はやしさんがどのように問いかけたか、その一言一句のニュアンスが、私の生む言葉に影響していたんだな、とわかります。
なので、ここでレポートという形をとりつつ、はやしさんに「相槌、問いかけのほうのログをこまかくお願いします…」というテレパシーを送るつもりです(届いていますか?)。
湖が見せてくれた疑問
やりたいこと、それに対する今の自分の状態、もやもやなど、流れるように話していきました。
スムーズという意味ではなく、無理に話が飛んだり跳ねたりせず、川上から運ばれてきた葉っぱが川下に流れていくのを、ぼんやり眺めるような時間だった…そんな意味です。
なので油断していました。
湖(はやしさん)からこんなことを言われたときは。
お話を聞いていて、不思議だなと思うことが3つあるんです。
ちょっとドキッとして、いや後ろめたいことは何もない…と気を持ち直しました。そのうえで、はてなんだろうか、と待ってみると意外なことを言われます。
「”仲間”の話題で、仲間がほしい・ほしくないという話から、仲間と何かをするのが得意・不得意という話に変わったんですよね」
「自分のしてきたこと、思っていることは大したことじゃない、とよく口にするけれど、あおやぎさんの価値観では『多様性の尊重、比較によってではなく、その人の捉えていることそのものに価値がある』という考え方のはず。自分に対しては過小評価している?自分に対しては、痛みを見ているようで深くまで見ようとしていないのかも?」
印象に残ったのはこういった言葉です。5個くらいの話題を終えたときにふとこのように聞かれて、自分でも「たしかに不思議だ」と感じました。
はやしさんからの問いかけに淡々と答えているつもりで、実は何かを避けながら話していたのかもしれない。サッカーのドリブル練習でコーンの周りをジグザグに走るように、何かをかわしながら、話していたのかもしれない。
そしてその行為が無意識のものだったとしたら、はやしさんからの疑問はなんだか「こわい」と思いました。
こわいよ、湖
自分が思うよりも、人から見た自分はいろいろな姿をしているものです。
隠しているつもりが実は明らかだったり、目立たせようとすると、それを見抜かれていたり。
自分が思う自分も正しいですが、人の目にも、何かが映されています。
それを知った気でいるのは、とても傲慢です。この人から私はこう見えるんだろう、あの人からはこう見えるんだろう……決して「その人」にはなれないのに、いつでもなれるような気でいてしまいます。
はやしさんという湖のような人は、それを教えてくれた気がしました。自己認識や、自己から見た他己認識では、見えないものが何かしらあるということを。
それはもしかしたら、はやしさんの言う「伴走」という言葉に深くかかわることかもしれません。
宿題は無し!やったぜ
いいかんじのことを書いておいてこんな結びですが、次のセッションに向けての宿題は無しとなりました。優勝。嬉しいです。なんですぐに「優勝」って言うんでしょうね。でもいいですよね、この言葉。
はやしさんに訂正されそうなので自分で書き添えますが、宿題は「自分自身を、1か月かけて探求していくこと」でした。あおやぎは決められた宿題をやることにモチベーションが高くならないタイプだということを、はやしさんに見抜かれたようです。
実はこのセッションからもう1か月近く経ちます。宿題をやっているかどうかは…自信がありません。
気分が上がったり下がったりしながら、やるべきことは淡々とやっています。でも、「やるべき」だけで1日を終えることが多く、それらも、偉大なことをしているかというと全くそんなことがありません。
そもそも偉大なことなんてめったにできないのですが、どうしても「良いこと」「すごいこと」「えらいこと」ができたときのほうが嬉しくなってしまうのですから、仕方ありません。
今はこんなことを願っているんだな、でもそれ以外の景色もあるな。
今そこにある自分と、思い描く自分との間を行き来するような態度が「自分自身を探求すること」なのかもしれない。そう思ったりもします。
底を覗いてみたい
今回のレポートは以上です。はやしさんは0回目につづき、やはり「湖」のようでした。よく笑ってくれる、たぶん芦ノ湖くらいの湖です。
はやしさんからの疑問に感じた「こわい」という気持ちは、不気味という意味ではなく、私が無意識に避けているものを感じて、「そこに何かがある可能性」を教えてくれた、ということへのこわさ、驚きでした。
もしかしたら、そこにあるのは痛みなのかもしれません。私のどこか奥底、普段見えないところには、埃をかぶった痛みがあるのかもしれません。
それでも覗いてみたい気持ちが、少しあります。何を避けていたのかがわかると、自分がどうなるかを知りたいからです。
もしご興味があれば、またご覧いただけると嬉しいです。
読んでくださってありがとうございます!