湖から聞こえてきた「矛盾」
どんなに聞こうと思っても、人の話を聞けない自分がいる。
まっすぐに、まっすぐに。相手の言葉だけを。
そう思っても、どこかで邪魔な声が入る。
「それって〇〇なのかな」「きっとこうなんだね」
相手の話を聴いているふりで、実は自分の声を聴いているのだ。
都合のいい聴き方をしてやしないかと、常に不安をもっている。
noteを通じて知り合ったはやしさんという方と、初めてお話しした。
電話で1時間くらい。最近はこういう初対面(面してないけれど)が増えている。
そのときのメモを残しておきたい。
カフェの中にある湖
はやしさんは、どこかお店にいたのではないかと思う。
うっすら聞こえる店員さんの声、コーヒーがつくられる音。
カフェだ。電話越しにそう思った。
実際そうだったらしい。
ただ、互いに自己紹介をしたり”最近気になっていること”を話していくうち、その周りの音が聞こえなくなっていった。それだけ、はやしさんは「音を消してしまえる」人だった。
もちろん、特殊能力で音を消したという意味ではない。
私の言いたい「音」は物理的な音だけではなく、はやしさんという人の「思惑」や「恣意」のようなもの。
丁寧に相手の話を聴いているつもりでも、ついつい相づちに含ませてしまう、思惑。
「〇〇ということなんですね!(それならこれが有効ですよ)」
「それは〇〇でしたね。実は私も―…(私の話はもっと面白いですよ)」
思惑を感じると、話し手のひらきかけた内側の扉が、光の速さで閉まる。それも相手に気づかれずに、そっと。
そんなことはきっと「話す・聴く」の場でしょっちゅう見られるのではないだろうか。
はやしさんがそういった恣意的な音を消してしまったのだとしたら、何が残ったのだろう。
ご本人にも最後にお伝えしたのだが、その時間は、まるで「湖に向かって話している」ようだった。
私が落とす、曖昧で手探りの言葉をうけとめてくれる。
しかしそのまま自分のほうへ引っ張り込んだり、まるで違った方向へ変えさせようとはしない。
私の言葉を、利用しない。
それはとても難しいことだと思うのだ。脊髄反射で利用してしまう私には、よくわかる。
まっすぐに、まっすぐに。相手の言葉だけを。
でも不思議と、はやしさんの声にはそんな気負いも感じられないのだった。
もうひとつ不思議なのは、受けとめてくれたうえで返ってくるもの。
ただ私の言葉を繰り返すでもなく、少し磨かれて返ってくる。
曇っていて見えなかったところに、丁寧に磨いた跡がある。
それはまさしく、はやしさんという人ならではの「静かな湖」がくれるものだった。
うけとめて、問いかける
湖畔に立ったことがあるだろうか。
少しひんやりして、微かに風が吹いている。
静かな水面を見ていると、胸の中でとぐろを巻いていた感情が、ほぐれていく。
「元気になりなさいよ」と背中を押されるのではなく、「本当に知りたいことは何?」と問いかけてくれる。
そんな大層な役目を担っているつもりなどもちろんないだろうが、私がイメージする湖とは、そんな場所だ。
受けとめる。そして、問いかける。問いかける際、そこに思惑はない。
ただ「隣にいる」と感じさせてくれる。
湖から聞こえてきたもの
その1時間、はやしさんは湖のような人だった。
いろいろな方向の質問をもらって話をしたけれど、それによって私は自分の内側に「矛盾」という概念を発見した。
自分という人間の中に存在する、さまざまな矛盾、葛藤のようなもの。
多様性を求める一方で、排他的になってしまいそうな時がある。それが苦しい。
ひとつの道を極める人に憧れる一方で、マルチポテンシャルを愛している。
湖のほとりに立って話せば話すほど、見えてくる矛盾。でも決して悪いものだとも思えない。在ることは、前から知っていた。
そうだ。湖は「在る」ものを再発見する場所なのかもしれない。
まだ見たこともないものを求めて冒険しにいくのではなく、どこか記憶の奥底に眠っているものを、濁りから、すくいとるような場所。
自分とはどのような存在か。
どのように生きたいのか。
発見するのは自分だ。湖が答えを用意しているわけではない。
そこに立った者は、自らの言葉と、湖から返される言葉を往復し、そのうちに磨かれた部分を発見していくのだろう。
おわりに
メモ程度のつもりが「おわりに」なんて書いてしまう。
はやしさんは、初めてお話しする方だった。まだよく存じ上げないし、次にお話しするときには、また印象が変わるのかもしれない。
それはそれで楽しみだし、今回はこうして書き残せてよかったと思う。
きっとまたメモを残すだろう。
その時にはどんな気持ちで書くのか、今から楽しみにしている。
読んでくださってありがとうございます!