『わかりやすさ』より『可能性』を選びたい
わかりやすいものに、人は飛びつきやすい。
友達のつくりかた
収入をたくさん得る方法
健康的な生活リズム
自分の性格特性
「わかりやすい」はいいこととされ、
なるべく整理するものの見方が推奨される。
でもわかりやすいものが、
いつもいつも可能性を拓くとは限らない。
『わかりやすさ』を求めたい気持ち
不確実さが濃くなっていく世界の中、正解を求めたいときもある。
自分に自信がないとき、「こうしたらいいよ」という声に救われそうになる。
不安を煽られるより、前向きな言葉が欲しいのは自然なことかもしれない。
わかりやすさを感じたとき、すでに何かできた気になったりもする。
でも、本当に『わかりやすさ』そのものが善なのだろうか?
残る言葉
私はダイアログ・イン・ザ・ダークという会社で働いている。
この場は完全に光を閉ざした“純度100%の暗闇”。
普段から目を使わない視覚障害者が特別なトレーニングを積み重ね、
ダイアログのアテンドとなりご参加者を漆黒の暗闇の中にご案内します。
視覚以外の感覚を広げ、新しい感性を使いチームとなった方々と
様々なシーンを訪れ対話をお楽しみください。(公式HPより)
学生時代に、当時の常設会場でこのソーシャルエンターテインメントを初めて体験した。
高校時代の恩師が「面白そうだから」と、ダイアログ・イン・ザ・ダークについて茂木健一郎さんが書かれた本を貸してくださったのだ。
学割の効くうちに…!と4回も通い詰め、すっかりファンになってしまった。
今でも記憶に残っているのは、4回目でご一緒したチームの方の言葉。暗闇から出てきて、感想をシェアする時間だった。
明るい場所に戻るとき、光が一筋でも見えると、そっちに進みたくなってしまう自分がいました。
不思議ですね。それが良い光か悪い光かすらもわからないのに。
静かに、落とすように語られたその言葉が、今も耳に残っている。
大学を卒業してダイアログとは全然ちがう業種に就いたけれど、その後いろいろあり縁あってこちらに入社してからも、時折ふと蘇る。
それは可能性を閉じていないか?
『わかりやすさ』というものが、光のように思えることがある。
一筋差し込むと、まるで「救いの手」のようだ。それをつかむしかない、と思いこむ。
けれど、そのわかりやすさの陰で、失われるものもあるのではないだろうか。
『わかりやすい』ことに飛びつく代わりに、他の可能性を閉じてしまってはいないだろうか。
なんとなく気になること。
言葉にしきれないこと。
こぼれていくものの中に、『可能性』が混ざっていないだろうか。
もやもやする気持ち、消えない不安、焦燥感。
そういったものを『わかりやすさ』が持ち去っていくとき、何か大切なものも失ったように感じるのは私だけだろうか。
二本の手と足で何をするのか
「可能性」について考えるきっかけをくれたのは、先日お会いしたひらやまさんだった。
二択にして考えることが必要な時もある。でも、綺麗な二択で測りきれないものも多い。参考になるものはあっても、一般的な正解というものなど実は存在しない。
目の前の現実はどうなのか、向かいたい先はどうなっているはずなのか。そう考えることなくしては、どこにも進めない。
「現実をどう捉えて自分の頭と二本の手と足で何をするのか」。大事にしたい言葉だ。
『わかりやすさに逃げない』ことは、『何も決めない』こととは違う。
向かいたい先と、今とる行動をつなげられるか。目的地と、現在地がわかっているか。
何かを決めるとき、拓かれる可能性と閉じてしまう可能性、その両方に敏感でありたい。
そして、向かいたい先と現実の今を、どちらも描く思考をもっていたい。
短く書こうと思ったけれど、まだまだ整理が必要だ。走りながら整えて、整えられない時の混乱も楽しめる私でありたい。