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ラーメン一番早く食えたやつが強い!みたいな世界にテレポートしたい。
♡をいただいた方のnoteを拝見し、僕/私の「強くなりたい」の中には「社会的に成功したい」という欲がチラ見えしていると気づかされた。でも、僕は強い人間になりたいと思っている。いつから社会的に成功したいとも思うようになったのだろう。
強さバトル=🤜 vs 🤛の喧嘩だったときは、喧嘩の強さ=人間としての強さだった気がする。でも、今は強さバトルが異種格闘技になってる。地位、お金、賢さ、物珍しさ。生き延びるためには色んな方法がある。
たたかう方法が複雑になったから「喧嘩で一番のオレが最強だ!」って一つの手段や能力のよしあしを計れなくなり、「この世界の頂点にたった俺が、最強なはずだ!」って結果で全てを決めるようになったような気がする。強者が勝者になるのではなく、勝者が強者になるようになった気がする。
そう考えると、強者になるには勝者になる必要がある。
強者になるには、社会の勝者=社会的に成功するということか...?
また、わからなくなってきた。
僕/私が感じる違和感は
①誰かと比較したい訳じゃないのに、強い弱いが相対的に決まるものであるために、結果として比較が生まれてしまうこと
②僕/私自身で「強さ」を定義したいのに、結果として、社会で成功することという他者の評価や結果によって、その定義が決まってしまうこと
③社会的な成功は結果論であり、なぜ?という問いに答えられないこと
な気がします。
集団生活なんだから当たり前じゃん。という意見もあるかもしれないけれど、自分でありたい強さを決められないのは心地よくないのです。そして、理由も分からないのに結果だけで、「強さ」が誰かに決めつけられるのが理不尽だと思うのです。
強くなりたいという欲望は、弱い自分の裏返しなんだろう。
弱い自分から抜け出したいのに、何が強さかすら自分で決められない。
ああ、僕/私の人生は『社会構造的に搾取される』運命なのか。
ラーメン一番早く食えたやつが強い!みたいな世界にテレポートしようかな。