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DAKOTA 38+2
1862年12月26日、ミネソタ州マンカトのスネリング砦で前代未聞の「38人同時処刑」が執行された。
絞首の様子が四方から見れるように、特別誂えの絞首刑台が設置された。
![](https://assets.st-note.com/img/1733958810-sBaQoHgVUNjyxLimu5R921k6.jpg?width=1200)
処刑されたのは、先住民ダコタ・スー族の男性38人。
この同時集団処刑は、現在に至るまでアメリカ史の中でも最大の集団処刑記録を誇っている。
そして、この恐ろしい処刑を執行させたのは、奴隷解放宣言で知られるアブラハム・リンカーン第16代アメリカ合衆国大統領だった。
![](https://assets.st-note.com/img/1733958964-dV4X57E68ow1sOBDa0iKIZAp.jpg?width=1200)
では何故こんな恐ろしい処刑が行われたのだろうか。
それは、「ダコタ戦争」と呼ばれるアメリカ合衆国とダコタ・スー族との間の紛争の結果だった。彼らはどんな罪を犯したのだろう。そもそも何故紛争は起こったのだろうか。
完全狩猟民族の先住民ダコタ・スー族は、アメリカ合衆国の軍事力に屈し、伝統的な狩猟場9600キロ平方メートルを166万5000ドルの一時金と引き換えにアメリカ合衆国に譲渡し、ミネソタ川上流を挟み、幅32km、長さ240kmの保留地に入るというトラバース・ド・スー条約を結ばされる。
アメリカ合衆国は代償として、毎年年金(小麦粉等の食糧)の配給を約束する。
しかし約束は守られない。
新参の白人入植者に土地を奪われ、年金の支払いも無く条約は破られた。飢餓に苦しむ。
スー族の酋長達はワシントンDCに出向き、交渉という手段で条約の執行を願い出た。しかし、彼等の生活の糧は法の名の下に奪われていく。
白人入植者が言った。
「奴等が飢えているなら、草か自分の糞でも食わせておけばいい。」
ダコタ・スー族の不満は暴動へと発展した。「ダコタ戦争」いやこれは戦争ではない。飢餓状態に陥ったスー族の暴動だ。
誰の、何の所為で暴動を起こしたのか。アメリカ合衆国の所為ではないか。
なのに、彼ら38人はアメリカ合衆国に処刑された。
このDAKOTA38というドキュメンタリー映像は、12月10日にサウスカロライナ州ローワー・ブルルのフォート・トンプソンを出発し、処刑当日の12月26日に大量絞首刑が行われたマンケートに到着するまでの極寒の中の過酷な慰霊の旅を映したものです。
当時の人達が処刑場まで通った道のりを辿ったものです。
全編英語ですが、もしよかったらご視聴ください。
これは決して過去の話ではないのです。過去から今迄ずっと続いているのです。約500年ずっと搾取され続けてきたのです。知らなければいけない事だと思います。日本でも同じ事が起きているのだから。忘れないでアイヌ民族や沖縄にしたことを。知らなければ知る努力を。
どうか知ることから始めてください。