北条泰時、父の死を悼む和歌
昨日は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がない日曜日でした。寂しいけれども、一年間楽しませてもらった感謝の気持ちと満足感の方が大きいかも。従来の大河ドラマの最終回は、「鎌倉殿の13人」第1回のラストシーン:「新世界」の音楽とともに頼朝と義時が馬に乗って駆け抜けてゆく、そんな場面で終わるイメージでしたが、今回はそこから始まったんですよね。
未来への希望を託された北条泰時。ドラマの中で、父義時に対して時に批判的なことばを発していた泰時でしたが、深刻な場面ではやはり父上を思い、気遣う姿を見せていましたね。
泰時が父の死を悲しみ、悼んだ和歌が、藤原定家撰『新勅撰和歌集』に入集しています。引用しましょう。
詞書「父(義時)身まかりて(亡くなって)後、月あかく侍りける夜、蓮生法師がもとにつかはしける」
山の端に隠れし人は見えもせで入りにし月はめぐり来にけり(北条泰時)
(山の端に隠れるように亡くなってしまった父はもはやその姿は見えないのに、沈んでいた月はまためぐってきたなあ)
「返し」
隠れにし人の形見は月を見よ心のほかにすめる影かは(蓮生法師)
(隠れるように見えなくなってしまったお父様の形見には、月をご覧なさい。あなたの心の中以外に、澄みきって住む月の光を見ることはありません)
(『新勅撰和歌集』雑三)
父義時を月になぞらえて、その死を悲しむ泰時と、お父様の形見として月をごらんなさいと、「心月」を説いた蓮生法師のやりとりです。蓮生法師は、俗名宇都宮頼綱、北条氏と縁戚関係を結びながらも謀反の疑いをかけられ、出家して上洛。嵯峨中院に山荘を持ち、その障子色紙和歌(百人一首の原型)を定家に依頼したことで有名です。
泰時は北条氏初の勅撰和歌集入集歌人となり、名君としての誉れだけでなく、歌人としても名を残した人なんです。
11月末に大学サークルの友人たち8人と一緒に鎌倉に出かけました。鎌倉大仏、長谷寺、宇都宮辻子御所跡、鶴岡八幡宮、大蔵幕府跡、頼朝のお墓、荏柄天神、鎌倉宮、永福寺AR探索。楽しかった~!
3月頃にはフェリスの学生たちとも鎌倉フィールドワークを実施予定です。
OG鎌倉見学会もそろそろ復活したいな。
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