「やわらかな国」
日本の古典文学に見る自国意識の続きです。「小さな国」(前述)に続いて「やわ(は)らかな国」日本という意識について、考えるところを記します。
和語、和歌の意味をめぐる数多くの言説のなかで、中世において顕著に見られるのは、梵漢(インド・中国)を「和らげた」ものであるという解釈です。『三流抄(古今和歌集序聞書)』などの『古今集』注を中心に、中世中後期に広く流布していました。菊地仁氏は、「和歌」を「ヤハラグウタ」と解釈する説が『古今集』序文と結びついていることを指摘しつつ、三国世界観、神仏習合とからめて、その成立と流布の様相を丁寧に論じておられます(初出「和歌陀羅尼攷」(『伝承文学研究』二八→『職能としての和歌』)。
和歌を「やはらぐるうた」と訓み、解釈するのは、中世に生じた新しい解釈です。
『拾遺集』の中に、「万葉集和し侍りけるに」などの詞書を持つ、『万葉集』歌に「和」した源順の歌が三首(恋二・七五七、恋三・七九四、恋四・八七七)収められています。顕昭は『拾遺抄注』において、
詞云、万葉集ノ和ノハベリケルニ
或人云、万葉集ノ歌コハキヲヤハラゲヨミナシタル歟。清輔朝臣云、万葉集ノ歌ヲ少々書出テ返ヲシタルナリ。和トイフハ返ナリ。
と、詞書の「和」をめぐる二説を紹介しています。源順歌の詞書の「和」は、『万葉集』の「こはき」歌を「和らげ」るの意なのか、それとも『万葉集』の歌に「返す」(唱和する)の意なのかという二説を引いているのです。前者の説は、『八雲御抄』巻六「用意部」に寂蓮のことばとして引く「ゐのししなどいふおそろしき物も、ふすゐの床などいひつれば、やさしき也」という一文などと同じ発想でしょう。
次に、『毎月抄』の一節を引いてみましょう。
まづ歌はただ和国の風(ふう)にて侍るうへ、先哲のくれぐれ書きおける物にも、やさしく物あはれによむべき事とぞみえ侍るめる。げにいかにおそろしき物なれども、歌によみつれば、優にききなさるるたぐひぞ侍る。それに、もとより優しき花よ月よなどやうの物を、おそろしげによめらむは、何の詮か侍らむ。
「和国の風」は日本の風俗という意味です。和歌は日本の風俗だから「やさしく物あはれ」に詠むべきという論理が展開されています。この背景にもやはり、「和」を「やはらぐ」とする解釈があるのでしょう。『野守鏡』も、「和国の風に、やさしくことばやはらぐるは是礼也(日本の風俗として、やさしくことばを和らげるのは、礼儀である)」と、「やはらぐ」と「やさし」を結びつけています。『毎月抄』の言説と近しい発想です。和歌は「和国の風」であるから、「やさしく」和らげて詠みなさいという論理の背景には、インド、中国、日本の三国の中で、日本という国を積極的に位置づけてゆこうとする国家意識の反映ではないでしょうか。(谷知子『中世和歌とその時代』第四章第三節「中世和歌に託されたものー末法・辺土思想の克服-」笠間書院)
藤原定家が大内の花見に際して詠んだ歌の後鳥羽院評にも、「やさし」のことばが用いられています。
近衛づかさにて年ひさしくなりて後、うへのをのこども、大内の花見に
まかれりけるによめる
春をへてみゆきになるる花のかげふり行く身をもあはれとや思ふ(『新古今集』雑上・一四五五・藤原定家)
後鳥羽院はこの定家詠を「尤も自讃すべき歌」とし、その理由の一つとして「述懐の心もやさしく見え」(『後鳥羽院御口伝』)と評しています。この歌は後年定家仮託の歌論書では「理世撫民体」の例歌とされます。「撫民」は、『新古今集』真名序の「理世撫民」、仮名序では「民をやはらぐる」に相当するでしょう。後鳥羽院に「やさし」と評された歌が、後年「撫民(民をやはらぐる)」の歌とされてゆく、ここにも「和らぐ」と「やさし」の接点が見られます。「やさし」の語には、人の心と心をつなぎ、相手の心を和らげるという、和歌の本質的な特性と関わる一面があるのかもしれません。しかもそれは、政教的であり、倫理的でもあると思うのです。
その後、江戸時代にも、
我等日本のやはらか詞教へこんで (『国姓爺明朝太平記』)
(我等日本のやわらかい言葉を教えこんで)
国姓爺は、我が切り取りし東寧という三百里の離れ島を高砂と、やはらかに和訓して 『国姓爺明朝太平記』)
(国姓爺は、私が切り取った東寧という三百里離れた島を高砂と、やわらかく日本語訓みして)
というように、日本=柔らかいという理解が進み、それが国民性や行動にも及ぶと考えられるようになってゆくようです。