9月9日
9月9日は、重陽の節、菊の節句です。起源は中国にあって、陽数の「九」を重ねる「重九」、から「長久」が連想され、長寿をもたらす日と考えられるに至ったようです。
建久年間に開催された『六百番歌合』には「九月九日」の歌題が出され、歌人たちはそれぞれ詠作に取り組みました。
その中の、顕昭と兼宗の和歌を引用します。
分け来つる情けのみかはそが菊の色もてはやす白妙の袖(顕昭)
今日といへばやがて籬(まがき)の白菊ぞたづねし人の袖と見えける(兼宗)
この2首は、陶淵明の盈把の故事を踏まえています。
盈把の故事を『芸文類聚』が引く「続晋陽秋」によって引用すると、
陶潜嘗九月九日無レ酒、宅辺菊叢中、摘レ菊盈レ把坐二其側一、久望二見白衣至一、乃王弘送ㇾ酒也、即便就レ酌酔而後帰
陶潜(陶淵明)は九月九日の重陽の日に、酒が無く、家の籬に群がり咲く菊を折って、手に抱えて、菊の花の傍に座っていた。すると、遠くから白い服を着た人がやってくるのが見えた。それは、王弘が酒を送って来た使者だった。そこでさっそく酒を飲み、酔っ払ったというのです。
『古今集』の紀友則の歌も、この故事を踏まえています。
菊の花のもとにて人の人待てるかたをよめる
花見つつ人待つ時は白妙の袖かとのみぞあやまたれける
(古今集・秋下・二七四・紀友則)
『顕注密勘』は、
これは、陶潜といふ人の九月九日に酒なくて只籬下に菊を翫びてをるに、王弘と云人の使白衣着たりしが、瓶に酒を入れて持ち来たりし事なり。
と注しています。
菅原道真の詩にもこの故事が見えます。
秋晩題白菊
涼秋月盡早霜初
殘菊白花雪不如
老眼愁看何妄想
王弘酒使便留居 (菅家後集・五〇五)
日本で愛され、受容された故事でした。
先の『六百番歌合』の顕昭と兼宗の和歌は盈把の故事を踏まえていることが明確にわかるのですが、藤原良経の和歌はいかがでしょうか。
雲の上に待ちこし今日の白菊は人のこと葉の花にぞ有りける
「白菊」と明示し、人の(和歌の)到来を待つと詠んでいるところ、やはりこの故事を踏まえているのではないでしょうか。
また、良経は次のような贈答歌を詠んでいます。
詞書「九月九日作文し侍りける時、中宮大夫詩をおくるべきよしかねて侍りける、その日になりておくらざりければ、後朝につかはしける」
白菊の籬さびしく見えしかな君がことばの花をよそにて
(秋篠月清集・一二四九)
返し
白菊の花もてやつすことの葉はなかなかなりや君が籬に
(秋篠月清集・一二五〇)
「白菊の籬」「君が籬」は、陶淵明の盈把の故事を示していて、良経は自分と家房(従兄弟)を陶潜と王弘のような友人に見立てているのですね。そして、良経はここでも、『六百番歌合』同様「ことばの花」を用いています。良経と詩友家房との交流は、『古今著聞集』巻一三にも書き留められているので、引用しましょう。
後京極良経故中宮権大夫家房の旧宅を過ぎ独吟の事
中宮権大夫家房卿、建久七年七月廿七日に失せ給ひて後の春、後京極殿、彼の家を過ぎさせ給ふとて、平生の作文の席につらなり侍りし事思しめしいでゝ、独吟せさせ給ける、
花尚春花留有露 宅斯旧宅廃有人
(『古今著聞集』巻13)
良経と家房は、詩を介して深い交流を持っていたのです。
『六百番歌合』の良経の歌は、陶淵明の盈把の故事を踏まえて、重陽の日に、酒ならぬ、「ことばの花」を宮中に届けたいと詠んだのでしょう。良経にとって菊、重陽の日は、中国の故事のように、人と人をつなぐ機縁、交流の日であったのではないでしょうか。
(谷知子「『六百番歌合』「九月九日」題と重陽節」(『明月記研究』14号 2016年1月)参照)
今年の重陽の節句は、午前中朝日カルチャーセンター横浜で90分お話したあと、鎌倉に移動して、鎌倉歴史文化交流館、鶴岡八幡宮、大河ドラマ館を訪れ、夜は谷ゼミOG(4期生)と鎌倉のensoで食事しました。素敵なお屋敷レストランで「こと葉の花」をおくりあう夜となりました。
[i] 『日本古典文学大系 古今著聞集』(一九六六年 岩波書店 )。