もののけ姫。宮崎駿の考える森と人の関係 ②
いよいよ劇場再公開された「もののけ姫」。
今回は序盤でのあまり気が付かない設定についておはなし致します。
実は前半部。特に序盤での宮崎駿監督の力の入れようは凄まじいの一言です。
蝦夷の村から物語は始まります。日頃より自然と共生している蝦夷一族は「異変」を感じ取ります。主人公であるアシタカも物見やぐらに登り、様子を見ることにします。
この物見やぐら。三内丸山遺跡などで出土され、再現までされているものと似たように設計されています。これは蝦夷一族が東北地方にあり、縄文時代の文化を受け継いでいるんだよということを暗に示しています。
そして「異変」は正体を現します。猪の身体に蛇のような触手のようなものがからみついた蜘蛛のようなおどろおどろしい妖怪です。
なぜ、蜘蛛のような姿にしたのか。それは大和朝廷に逆らっている部族の呼び名の一つとして「土蜘蛛」というものがあって、大変な差別用語。実際に大和朝廷に征伐を受けて、凄まじい怨嗟を残しつつ死んでいった人たちの怨念がまとわりついているんですよという案内です。
「タタリ神に手を出すな、呪いをもらうぞ」長老はアシタカにアドバイスします。それはまるで「怨嗟に身を委ねるな。報いを受けるぞ」という風にも聞こえます。
結局アシタカは許嫁のカヤがタタリ神に手を出しそうになるのを見て、タタリ神を討伐して自らに呪いを受けることを選択します。
村のシャーマンであるヒイ様はタタリ神を諭します。「この地に塚を築き、魂が成仏できるようにしますので鎮まってください」と。
この考え方は古くから日本に根付いている宗教観で、無念を持った者の魂が神霊となり、荒ぶる神にならぬよう祀ったもので、主に石像・磐座であることが想像できます。実際になぜ名のある神であった「ナゴの守」がタタリ神になってしまったのかを占う聖なる場所で、ヒイ様は大きな石を崇めています。石神(シャクジ)です。
東京では石神井という場所が練馬区にありますが、これは井戸を掘っていた際に地中から奇瑞がある石が出てきたことから 石神+井戸=石神井 と言われています。
また、長野県の諏訪地方は、古い宗教をもった人々と大和朝廷との大規模な戦争が起きた地なのですが、土着神として祀られていた神様の名前は「ミシャクジ」様です。僕は「御石神」様から来ているのではないかと考えています。
さて、話をもとに戻しましょう。土蜘蛛(いわば同胞)を殺めたアシタカは村を出なくてはなりません。アシタカは将来を嘱望されていた若者でありましたが、ヒイ様はやんわりと申し渡します。アシタカもそのことは良く理解していて、髷を切り村を出ます。髷を切るという行為は、死を意味していて「蝦夷(本当は違う言い方でしょうけど)のアシタカヒコは死んだ」というメタファーです。
「村を出るものを見送らない」という掟がありますが、許嫁であるカヤは大切な玉(黒曜石)の小刀を託します。これは「私は独身を貫きます」という意思を示しています。
村を出たアシタカは侍通しの小競り合いに出くわしてしまいます。ここで呪いの力を受けて、鬼のような超人的な破壊力を示し、数人の侍を射殺、もしくは惨殺します。その後訪れた村で、アシタカはジコ坊という人物に出会います。
ジコ坊は蝦夷一族の伝承を知る人物で、アシタカが示した石火矢の弾を見てシシ神の森について案内をします。
オカユを食べながら話をする場面なのですが、アシタカが差し出した器をみて「雅(みやび)な椀だな」と鑑定できることから、かなり朝廷の上流にいる人たちの生活についても知りえる人物だと暗に示しています。
アシタカが所持している椀は漆器の器です。漆器は古くから日本で活用されてきましたが、主に縄文文化圏内のものです。
日本書紀でも縄文系である物部守屋から大和系の蘇我馬子へ漆工職人が派遣されている記述があることからも分かります。
当時、漆の器を活用しているのは貴族や権力者の一部の人間くらいで、あとは日常使いをしている部族(蝦夷)くらいです。ここでもアシタカが縄文文化を継承している民族で、当時の大和支配における世間では「異端な文化」を持っていることを改めて示しています。
そしてアシタカはジコ坊の話を基に、西へ西へと旅を続けます。
やがてアシタカはケガをしている人間の男性に出会います。「甲六」という牛飼いで、モロの君との小競り合いのさなかに谷底へ落ちてしまった一人でした。ここで森のマスコットとしてグッズで人気のある(笑)コダマと出会います。
森が豊かなしるしの妖精であり、「ここにもコダマがいるのか」というアシタカのセリフにもあるようにアシタカは何度も遭遇していることがうかがえます。
そんなコダマに道案内をされて、アシタカと甲六たちは「タタラ場」と呼ばれる村へたどり着きます。
長くなりましたね。本日はここまでにしましょう。
次回はタタラ場の解説からです!
埋もれてしまっている宝石がたくさんあるように思います。文化だったり、製品の場合もあるけれど一番は人間の可能性です。見つけて、発信してよりよい世界を共に生きましょう。