才能という言葉に苦しむな
「自分にはそんな才能がないから・・」と嘆くこと。
「人には何かひとつは才能がある!」と語ること。
どちらも同じくらいの頻度で「使われる」ようになりました。
「才能」って何ですかね。
才能というものを定義するものが背後にあるように感じます。
それは優れているかどうか、ではないでしょうか。
「君には音楽の才能があるねえ」は、絶対音感があったり、リズムをとるのがうまかったりすることがイメージできます。
「君は野球の才能があるねえ」は、身のこなしかたの習得が早かったり、身体のわりに肩の筋力が滑らかで遠投が得意だったりすることだったりもします。
どういうことを言いたいのかっていうと、「足が速い人」は才能あり。「早く走れない人」は才能なし。という分類をしているよね。ということです。
才能と呼ばれるものと個性って同義のように僕は考えてしまうわけです。
例えば、ドラえもんの「のび太」君はしょっちゅう昼寝しています。これも才能ではないでしょうか。でもあんまり一般的には「才能」という表現をしないですよね。
ダイエットをしているのに美味しいスイーツ店が出来ると寄ってしまうことをみても、「ダイエットを続ける才能」は乏しいのかもしれませんが、「スイーツの味覚を舌で記録する才能」にあふれているのかもしれません。
自分には人より優れた才能がないって落ち込んでいることよりも、
基準さえも曖昧な「才能」という言葉で、どうして人間が仕分けされなければいけないのか、むしろそちらを疑問に思わないことを恐れるほうが健康的なように思えるんです。
優れた、便利な才能は確かに欲しい。でもそれ以前に「自分と他人が違う存在である」ということを分かっていることの方が大切です。
「そんなの、わかってるよ」と頭では思いながら僕たちはどこかで互いの能力を比べながら、奥底の方では同じ。と思ってしまいがちです。だから比べてしまうのです。でもそれは絶対にありません。
僕の仕事と同じものを他の誰かにそのまま叶えてもらうことを期待してはいけないし、叶えてもらうことは出来ません。
同様に他人にできること。例えばウチの奥さんがやっている仕事をそのまま僕が受け継ぐことは出来ません。
各々が「違う」存在であるということを受け入れて、お互いに知り、学びあいましょう。
才能という言葉で苦しむことなんてないんですよ。
埋もれてしまっている宝石がたくさんあるように思います。文化だったり、製品の場合もあるけれど一番は人間の可能性です。見つけて、発信してよりよい世界を共に生きましょう。