レイトショーをみた後に考えたこと


昨日、noteを書いてから、一本の映画をレイトショーで観に行った。

その作品は公開されてからしばらくもしないうちにネット上で「面白い」と評判になっていたので、ぼくも1ヶ月ほど前に観に行こうとした。
しかし、時すでに遅し、そのあまりの人気っぷりのせいでチケットは3日先まで完売していて、ぼくはその映画をみることはできなかった。

普段はどの映画を観に行っても、観客はだいたい10人居るか居ないかくらいの劇場がたくさんの人でごった返し、映画館の前を行く人は劇場の外のポスターを観ながら「あの映画めっちゃよかった」と話している。
さらに、ぼくが普段使っている映画系SNSアプリのFilmarksでも、その作品の全国平均評価は4.1点/5点と、非常に高かった。
とにかく、ものすごい熱狂だったのだ。

これはしばらくは観られそうにないな、とその時のぼくは少し落胆した。

それから1ヶ月、観客の動員も落ち着いてきたようで、そろそろ公開も終わってしまうということに気が付いたぼくは、満を辞してその作品を観に行った。それが昨日のことだ。


そして鑑賞後。
その作品がぼくの中に残したものや、ぼくがその作品の中に観たものをしっかりと自分の中で整理し、帰り道に自転車を漕ぎながらその余韻までも十分に堪能した後。
ベットに入ったぼくは天井を観ながらこう思った。


「そんなに好きじゃなかったな」


こういうことはよくある。
誰かが好きなものや、みんなが好きなものを自分が好きだとは限らない。逆もまた然りだ。また当然、みんなも自分も大好きな作品というものもある。要は合うか、合わないか、だ。

じゃあ、自分に合ったものを選ぶためにはどうしたらいいんだろう、と考えるとすごく途方もない気分になる。


映画でも食事でもなんでも、見る前や食べる前から合うか合わないかを知ることはできないだろうし、そもそも本当にそのものが自分に合っているかどうかはわからないことも多い。
例えば、ぼくは普段13インチのMacbook Proを使っていろんな作業をしているけれど、本当はSurfeceの方が自分には合っているかもしれない。

写真の編集をするときにはワコムのペンタブを使っているけれど、本当はもうワンサイズ大きいペンタブの方が合っているかもしれない。
ユニクロの服はLを買うけれど、本当はLとMの間の方が体に合っているのかもしれない。

だんだんそんなことを考えていると、実は世の中には自分に合ったものなんて本当はなくて、むしろ自分の方が作品や物に合わせている側なのかもしれないと思えてくる。


そう考えると
実は、自分が好きな作品や好きな物というのは、自分が好きという気持ちに合わせに言っているのかもしれない。
作品や物を好きになる、という行為の根本には「好きという気持ち」ではなく「好きになりたいという願望」が、その人にそう思わせているだけなのかもしれない。少しだけ、そんな風に思えてこなくもない。

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