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「エモい」という絶句


ほんの少し前まで、「エモい」という言葉があまり好きになれなかった。

そこに対した理由はなくて、ぼくは昔から少しひねくれたところがあるので、流行りの言葉を使うことには抵抗を感じるタイプの人間だし、何より自分の複雑な感情を「エモい」という言葉にまとめるのはなんだか怠惰なことのように思えていたからだ。


ただ最近は、この「エモい」という言葉には、自分が思っていたよりもずっと深い役割があるのではないかと思い始めた。


「エモい」という言葉はよく、人が感動したときに使われる。綺麗な夕焼けをみたときや、懐かしい青春の香りを感じたとき、はたまた、革新的なものを見たときなど。そのきっかけをさまざまに、人は自分の心が動かされた時の感覚を「エモい」と表現する。

「エモい」という言葉は、多くの人が知っているように、英語の「emotional=感動的、感傷的」という言葉に由来している。

ここで注目したいのが、人が「エモい」と発するとき、それは必ずしも対象の美しさや価値を表しているわけではない、ということだ。
「エモい」という言葉は、あくまでも自分の心の動きを表しているだけで、それは決して夕焼けや青春の香りの美しさを表現しているわけではない。


そもそも人間は本来、言葉を使って物の美しさを表すことはできない。
かつて小林秀雄も「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」といっていたように、ぼくたちは美しい物を誰かに伝えることはできても、その美しさを伝えることはできない。
もちろん、美しいものを見たときに「懐かしい」や「暖かい」「儚い」など、さまざまな言葉を使ってその美しさの一面を切り取ることはできる。

しかし、それはあくまでその物が持っている一面でしかなく、美しさそのものではない。ものの美しさを伝えるためには、美しいものをそのままの形で伝えるしかないのだ。
人は本来、美しさを前に「絶句」するしかない。



そしてこの「エモい」という言葉には、そのような「絶句」としての役割があるのだと、ぼくは思う。
「エモい」という言葉は、決して自分の感情を言葉にすることをサボっているのではなく、むしろ言葉にできない美しさをそのままの形で受け入れているのかもしれない。

この言葉は、はじめから「美しいもの」については触れておらず「美しいものに触れた自分」しか表すことはない。つまり「懐かしい」や「暖かい」「儚い」といった言葉のように、誰かに「ものの美しさ」を伝えるための機能は最初から備わっていないのだ。

これは、言葉の限界にして言葉の始まりでもある。
もし「エモい」という言葉が、そんな絶対的な孤独の境地に立つ言葉として作られたのだとしたら、ぼくはそれに対して「エモい」という他ない。


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