一緒に生きよう、そんな話がしたい。
今回は、2021.10.9のライブ配信で話していた内容を、
改めて思い出しながら、配信に残そうと思いました。
3.11、この日付に関する内容です。
今日話すテーマは
「東日本大震災の報道では語られなかった一面、人は所詮性悪説」
です。
2021年の10月。
私は月に2.3回程度、知り合いのカラオケバーのお手伝いをしていました。
そこでは、いろんな出会いがあるのですが、
今回のお客様は見た目がとっても厳つい男性でした。
側頭部に蜘蛛の巣が描かれており、ピアスもいっぱい空いていて、
服装もイケイケっていう表現が合っているかわかりませんが、
とにかく、私はあまり得意ではないタイプの男性だったんです。
それでも接客するのが仕事なので「初めまして」と明るく挨拶をすると、
「初めまして。よろしくね。」と、気さくに話してくださったんです。
話してみると、見た目は厳ついけど、すごく優しくて、
ドリンクとかフードもどんどん注文してくれるし、
ちゃんと話もしてくれる、とっても素敵なお客様だったんですよね。
私「もともと名古屋の方なんですか?」
と私が聞くと、
男「8年前に名古屋に来たんだ。」
と答えられました。
私「あ、そうなんですね。なんでこっちに来たんですか?」
と、軽く聞いたところ、思いもよらない回答が返ってきました。
男「実は被災してさ。」
このやり取りをきっかけに、東日本大震災での出来事を話してくれました。
その男性は当時、名前が思い出せないのですが、岩手の島に住んでいて、
家族みんなでお昼ご飯を食べていたそうです。
突然地鳴りが始まり、すぐに震度7の揺れが到来しました。
その男性は漁師をやっており、直感で「これはすごい津波が起こる」と分かったそうです。
0歳の子どもと奥様、そして両親を急いで避難所に避難させ、
津波が来るまでの30分間、いかに人を助けられるかと、地域住民を避難させることに奮闘していました。
いろんな人に「逃げろ」と言って回り、足の悪い人は背負って走って避難させる、それを30分間繰り返し。30分間なんてあっという間で、とうとう自分の目の前に津波が迫ってきました。
その時、おばあさんを背負った状態だったそうなのですが、自分ももう逃げようがないと悟り、おばあさんを電柱にしがみつかせて、自分も必死の思いで電柱にしがみつき、津波が来るのをずっと見ていたそうです。
もう、見ていることしか、できなかったって。
いざ津波が到達し、おばあさんに「頑張れ!」と声をかけていましたが、
目の前でおばあさんが瓦礫に呑み込まれ、
身体が真っ二つになるのを見てしまいました。
それを見た瞬間、あぁ、自分もこうなるのか…と半ばあきらめたような気持になり、自分も津波に呑み込まれました。
津波に呑み込まれたと同時に意識を失い、目が覚めた時。
目の前にあったのは、53歳の男性の顔でした。
意識は戻っているのだが、身体が思うように動かない。
必死に自分を助けようと人工呼吸をしてくる男性に、声を振り絞って
「もうええて、キスはもうええて」と呼びかけたそうです。
そこでようやく、自分の状態を聞くと、肋骨が12本折れ、腕も折れている状態。生きていただけでも奇跡に近い、ボロボロの状態でした。
少しずつ動けるようになり、周囲の状況を確認。
まだ津波は視界の中に居て、呑み込まれていく人々の「助けて」という叫び声が響いていたそうです。
近くにいても助けられない。助けに行ったら、自分も死んでしまう。
だから「ごめんな」って言ってそれをただ見続けるしかなかったと、当時を振り返っていました。
夜が明けて朝になり、奥さんと子供を避難させたはずの避難所が、津波に呑み込まれたことに気が付きました。
どこかで生きているんじゃないかと願ってはいたものの、二人の姿は発見されず不安な日々を過ごしていました。
自衛隊が到着したのは震災が発生して2日後。
それまでの間に、人間の本性を見たと、男性は語っていました。
その島には警察官は2人しかおらず、その2人の警察官が震災で亡くなったという事実が知れ渡ると、治安が一気に悪くなり町が崩壊していきました。
空き巣に入る人、女子供を強姦する人、最後には殺人まで起きてしまい、
島は無法地帯。
町長も死んでおり、消防士も死んでおり、誰も取り締まる人がいない世界は、こんなものなのだ。
人間は所詮性悪説なんだと実感したと言っていました。
震災から、1週間後。
ようやく奥様と子供が、
変わり果てた状態で亡くなっているのが発見されました。
奥様の片腕は津波によってもぎ取られ、
首も切断されかけていて、かろうじてつながっている状態。
それでも子供を必死に抱きしめていたのであろう、
子どもは無傷のまま、母の腕の中に抱かれながら亡くなっていました。
その姿を見て、男性は、
「お疲れ様、よく頑張ったな。守ろうとしたんだな。」
と声をかけたと言います。
家も失い、職も失い、家族も失い、何もかもを失った男性は、半年間、放心状態が続いたそうです。
その半年間は島全体が疲弊しており、何も手につかない状態の中、ボランティアの人たちが島にやってきました。
そのボランティア…それはテレビ等で報道されているような、優しいもの、助かるものではなくて、
島の住民からしたら邪魔ものでしかなかったそうです。
外国から、日本から「ボランティア」という名目でやってきて、彼らがしていたことは「片付けという名の窃盗」「救援という名の売名」でした。
本当に欲しいのは、食料や消耗品などの物資。人員ではなかったんです。
赤ちゃんがミルクがなくて泣いている、食べ物がなくてお腹を空かせている人たちが大勢いる。
そんな人たちの貴重な物資を、ボランティアの人たちが奪い取っていたこともあるようです。
「私たち被災地に来ています!」「人助けをしています!」「私たち頑張っています!」というのを切り取って、被災地を利用して、慈善事業として企業活動をアピールしたい人も大勢いました。そういうボランティアは、取れ高さえ取れれば、何をするでもなく、それで帰ってしまう。被災地を助けに来たという事実を残したいだけで、本当に助けに来たわけではありませんでした。
ここまで話をした後、唐突に
男「普段はどんな仕事をしてるの?」と聞かれ、
私は当時ウェブデザインの仕事をしていたので、
私「私、ウェブデザインの仕事をしているんです。」と答えると、
急に褒めてくれました。
男「ウェブデザイナーさんってすごいよね。」という話出しから、当時の出来事を振り返ってくれました。
東日本大震災を後世に伝えていくためのウェブページを作成するために、
あるウェブデザイナーさんが被災地を訪れてくれていたそうです。
悲しみにくれていたり、絶望していたり、
喪失感でどうしようもない状態の中、
様々な報道機関で使われていた言葉は
「希望」だとか「頑張ろう」だとか「絆」だとか。
どれもしっくりこない、綺麗ごとにしか聞こえませんでした。
そのウェブデザイナーさんは救援活動をしながらも、
一人一人の話を取材し、一つのウェブサイトを立ち上げました。
それと同時に、島の人に向けてポスターも作成してくれたそうです。
そのポスターに書かれていた、大きな4文字。
それが「生きよう」という言葉でした。
この「生きよう」って言葉が被災者の人たちの心を打ち、
大勢の人がそのポスターで涙を流したのだそうです。
本当なら自分も死んでいたかもしれない。
最愛の人を亡くしてまで、自分が生きている意味はあるのだろうか。
何もかもを失った今、生きる意味を自問自答している人がたくさんいる中でのこの4文字は、強烈な印象を与えたようです。
男「その言葉があったからこそ、今自分も生きているし、こうやって美味しいお酒も飲めているんだよね。」
なんて笑う男性は、少し悲しそうで寂しそうでもありましたが、
生きようって言葉に救われたんだよってことを何度も話していました。
ここまでの話を聞いていた私は、報道の裏側のリアルを知らされたような気がして、なんだか心にずっしりと重たい感覚がしました。
私たちが目にしている、耳にしている報道というのは、表に出してもいいと思われる、ある一部分でしかない。
平和だと思われているこの日本で起こった出来事なのに、きっと皆さんも知らなかったと思います。
こういう隠された部分は今までにもたくさんあったと思います。
報道にはない、リアルな情報を発信するのが、
こういう配信の本来のあり方なのかなぁと思ったりもしますね。
いつだって、次は我が身です。
今回のこの配信が、あなたの心に届いて、
少しでもお役に立てればいいなぁと思います。