憧れのCEOは一途女子を愛でる 第1話
(あらすじ)
スポーツウェアブランドを手掛ける㈱ジニアールで働く冴実は、会社の社長である朝陽に対して憧れと尊敬の気持ちを抱いているものの、雲の上の存在でまともに話したことがない。
そんな中、祖父の倫治の友人で囲碁仲間の辰巳が朝陽の祖父だと知る。
冴実は大学時代、友人に彼氏を取られてしまい、それがトラウマで恋愛には臆病になっていた。ある日冴実は来店客からクレームをつけられるが、相手は元カレとの破局の原因になった友人だった。
クレームのことで落ち込む中、倫治が急に倒れて救急車で運ばれてしまって……
頑張る女子を応援したくなるオフィスラブストーリー。
#創作大賞2024 #恋愛小説部門 #小説 #胸キュン #CEO #頑張る女子 #オフィスラブ
<第1話 意外な縁>
今日は仕事が休みだというのに、私は自宅で仕事の資料に目を通しながら、ノートパソコンの画面を睨みつけている。
気が付くと時刻はすでに十四時を過ぎていて、どこに出かけるでもなくこんな時間になっていた。
三月に入ってから気温がぐっと上がって暖かくなった。今は春本番といった気候だ。
それにもかかわらず休みの日にずっと家にこもっている自分がすごく不健康に思えてくる。
無理にでもどこかに出かければよかったと悔いていたら、しとしととした雨が降っているのが窓から見えた。先ほどまであんなに晴れていたのに……。ふらりと散歩にでも出ていたら、危うく濡れて帰ってくるところだった。
私の名は香椎冴実。
年齢は二十五歳で、大学を卒業してすぐにアウトドアブランドを手掛ける株式会社ジニアールに就職し、商品企画部に配属された。
我が社は設立してからの創業年数は短い会社だが、次々と実店舗を出店していて、幸いどのショップも順調に売上を伸ばしている。
成功している理由は本社の経営戦略が緻密で優秀だからだそうだ。
「うぅ……喉が渇いた」
集中しすぎていて、いつの間にかグラスの中のお茶が空っぽになっていることに今気が付いた。
椅子から立ち上がってグイッと背伸びをする。すでに首も肩も凝り固まってガチガチになっていた。
空になったグラスを手に自室の扉を開け、トントントンと軽快な足取りで階段を下りてキッチンへ向かう。
冷蔵庫にある冷えた麦茶をグラスに注いでいるときに、背後から母が声をかけてきた。
母はスーパーでパート勤めをしているが、今日は午後から休みだったらしい。
「もう、そんな格好でずっと部屋に閉じこもっているなんて信じられない」
母は私の姿を目にするなり反射的に顔をしかめたけれど、自宅で上下セットアップの部屋着を着ていてなにがいけないのかわからない。
下はワイドパンツ型になっているし、さわやかなミント色で、私のお気に入りなのに。
「髪も適当にまとめただけだし……誰にも見せられない姿ね」
「だって楽なんだもん」
髪に関してはセミロングの黒髪をひとつにまとめ、大きめのバナナクリップで落ちてこないように止めているだけなので、母の指摘通りかもしれない。
自分の手で触れて確かめてみると、いつの間にかサイドの髪が乱れてボサボサになっている。
「仕事をしていたの?」
「ううん。いろいろ勉強してただけ」
「商品企画部ってそんなに大変? 休みの日は休みなさいよ。デートするとか」
デートは相手がいないとできないでしょ、と心の中で反論した。
そう言われれば、私は最後にデートをしてから何年経っただろう。元カレと別れてからだから……もう三年が経過した。それ以降恋愛からは遠ざかっているけれど寂しさはない。
最初は社会人として働くことで失恋の痛手を忘れようとしていた。でも今は強がりではなくて、仕事が大事だし楽しいと思えている。
「おじいちゃんは?」
リビングのほうに目をやってキョロキョロと見回したけれど、祖父の姿が見当たらない。
父が病気で亡くなったのは私が十三歳のときで、それ以降は私と母と母方の祖父の三人で暮らしている。なので我が家では祖父が父親代わりだ。
「囲碁を打ちに行ったわ」
「そう」
昔から祖父は囲碁打ちが趣味で、同世代の仲間がたくさんいるらしく、とても楽しそうに交流している。
年齢を重ねても熱中できることがあるというのは素晴らしいし、なんだか微笑ましい。
立ったままお茶を飲みつつ母とキッチンで話していたら、部屋着のポケットに入れていたスマホが着信を告げた。
誰からなのかと画面を見ると、かけてきたのは祖父だったので、私は通話ボタンを押して「もしもし」と電話に出た。
『冴実、今家にいるか?』
「いるよ。どうして?」
『うっかり傘を忘れて出たんだ。悪いけど持ってきてくれないか?』
私はフフッとあきれた笑い声を漏らしつつ、「わかった」と短く返事をして電話を切った。
祖父が通っている碁会所までは何度か訪れたことがあるし、家から歩いて行ける距離なので、私としても外に出る良いきっかけができた。
「おじいちゃんに傘を届けてくるね」
「まさかとは思うけど、そんな格好で出かけないでね」
母が私に視線を送りながら釘を刺した。いくらなんでもさすがにこの見た目で外に出るのは無理だと私もわかっているのに。
「ちゃんと着替えるよ」
自室に戻って半そでTシャツの上からチャコールグレーのパーカーを羽織り、下はジーンズに履き替えた。
クリップで止めていた髪は下ろしてブラシを通し、真っすぐに整える。
メイクをしようかとコスメボックスに手をかけたものの、開くのをやめた。
祖父を迎えに行くだけだし、私の顔がノーメイクかどうかなんて誰も気にしていないだろう。
「行ってきます」
母に声をかけ、紳士用の祖父の傘を片手に家を出た。
雨は先ほどよりも勢いを増してアスファルトに打ちつけている。足元をよく見て歩かないと靴の中まで濡れそうだ。
どこに寄り道するでもなく、駅の近くにある目的地へと足を速めた。
「こんにちは」
ビルの二階にある碁会所を訪ね、笑顔で方々にあいさつをした。
「おお、冴実ちゃんか。いつ見ても美人んだな」
「あはは。ありがとうございます」
自分から名乗らなくても、どうやら私の顔と名前は多くの人に知られているようだ。
祖父と同性代の人たちがまるで自分の孫に接するように気さくに話しかけてくれてうれしい。
「倫治さん、冴実ちゃんが来とるよ」
テーブルと椅子がびっしりと並べられている部屋の一番奥で、祖父が腕組みをしながら碁を打っていた。
相手をしてくれているのは、祖父とは旧知の仲だという辰巳さん。
辰巳さんはいつ会ってもにこにことした柔和な笑みをたたえて、恰幅のいい体型をしているのもあってとてもやさしい印象だ。
ふたりのそばまで行き、「こんにちは」と頭を下げてあいさつをした。
「おじいちゃん、傘を持ってきたよ」
「おお、すまんな。でも……こりゃもう少しかかるぞ」
祖父が碁盤を見つめたまま、難しい顔で返事をした。
私にはわからないけれど勝負が拮抗しているのか、祖父はプロ棋士さながらに次の手を考えている。
「倫さん、まだまだ俺には勝てんな」
「いやいや、たっちゃん、実力の差は縮まっとる!」
祖父が囲碁に没頭し始めたのは、ここで辰巳さんと打つようになってからだ。
腕前は辰巳さんのほうが上みたいで、祖父はなんとかそのレベルに追いつきたいらしい。
ふたりは馬が合うのか、いつも一緒にいて楽しそうにしているからとても微笑ましい。祖父にこんなにも仲の良い友人がいてよかった。
「冴実、終わるまで待ってるだろ?」
「うん。おじいちゃんとなにか甘い物を食べてから帰ろうと思ってるもん」
この近くに祖父が気に入っている花野庵という名の甘味処があり、そこに寄るのが実は密かな楽しみなのだ。
休みの日をこんなふうにゆったりと過ごすのも、ある意味贅沢だと言える。
「いいなぁ。こんなにかわいい孫娘と一緒に暮らして、デートまでしてくれるんだから倫さんは幸せだな」
「そうか? 彼氏がおらんのも問題だ。このままじゃ結婚できん」
祖父は照れ隠しで言っただけなのかもしれないが、私はその言葉を聞いてわかりやすく口をへの字に曲げた。
そんなやり取りを見て、周囲にいた中高年のおじさんたちがアハハと笑う。
「結婚だけが幸せじゃないよ。いろんな生き方があるから」
これに関しては、世代が違うのもあって祖父とはまったく意見が合わない。
私が二十代のうちに結婚をして早く子供を産んでほしいと祖父が望んでいるのは知っている。
だけど人それぞれの幸せの形があっていいはずだし、私は自分の幸せは自分で決めたい。
「倫さんは冴実ちゃんを心配してるだけだから」
辰巳さんの穏やかな声を聞いていると、次第に口角が上がっていくから不思議だ。
私の祖父はぶっきらぼうで頑固なところがあるけれど、辰巳さんはとても温厚だから話すたびに癒される。
「でも……今は仕事が楽しいからなぁ」
「出世がしたいのかい?」
「そういう欲はないけど、責任を持ってがんばりたいの」
私が仕事人間になるなんて、学生時代は考えてもいなかった。
元カレと付き合っていたころは恋愛がすべてで、なによりも恋人を優先していたくらいだから。
だけどその恋もうまくいかず、就職してからの私は恋愛から遠ざかり、心血を注げる対象は仕事だけになったのだ。
仕事はがんばれば成果が出て次のやりがいに繋がっていくから、恋愛よりもわかりやすい。
「すごく素敵でカッコいい女性の上司がいて、その人が私に目をかけてくれてるんですよ」
「へぇ、そうなのか」
商品企画部の部長は、五年前に我が社にヘッドハンティングでやってきた伊地知さんという女性なのだが、新入社員のころから真剣に仕事に取り組む私をとても評価してくれている。
ジニアールは“アミュゾン”という自社ブランドを商品展開しているのだけれど、私は商品部の人間としてなにができるのか、退社後や休日でも常に考えるようになった。オンもオフもない。
伊地知部長も私に期待してくれているからそれに応えたいし、努力は実を結ぶと信じたい。
「だけど彼氏はいなくても、気になる程度の男もいないの?」
「うーん……気になるっていうか、憧れの人ならいるかな。すごく尊敬しているんです」
意味深な発言をしてしまったが、今咄嗟に頭に思い浮かんだ人は、私が勤めている会社の社長だった。
だからと言って私が恋人になれるとは微塵も思っていない。対面できちんと話したこともないのだから。
社長は本当に素晴らしい人で、私は心の底から尊敬している。目を奪われるのは女性だけではなく、あんなふうにカッコよくなりたいと憧れる男性もきっと多いはずだ。
「なんでその男じゃダメなんだい?」
「ダメではないけど、雲の上の存在で手を伸ばしても届かないの。それに、今は恋愛より仕事で頭がいっぱい」
「うちの孫も同じようなことを言っとるわ」
私の発言を聞き、辰巳さんが肩を落として苦笑いをした。
辰巳さんのお孫さんの話は今までに詳しく聞いたことはなかった。たしか同居はしていなくて、私より六歳ほど年上で男性だったはずだけれど、それくらいしか知らない。
「お孫さんはどんなお仕事をされてるの?」
碁盤を睨んだままの祖父をそっちのけにして辰巳さんと話していると、祖父が突然私に視線を向けた。
「たっちゃんの孫は会社の社長だ。すごいだろ」
なぜか祖父が自分のことのように自慢げに言うと、辰巳さんは笑いながら謙遜をして顔の前で手を横に振った。
「うちの孫は趣味が高じて会社を作っただけだ。まぁ……信頼できる仲間と一緒にやれてるから幸せだろうけどな」
「すごいです。信念と覚悟がなきゃ会社なんて作れないもの」
自ら起業するには多大なエネルギーが必要だと思う。
最初に資金の借り入れをするのなら、事業を成功させなければ借金だけが残ってしまうのだから。
実は我が社の社長も、親友の五十嵐朔也という人物と一緒に会社を立ち上げたそうだ。
五十嵐さんは今、専務という肩書で、社長の右腕としてしっかりとサポートをしていると聞く。
辰巳さんのお孫さんもきっと、社長や専務のようにバイタリティあふれる人なのだろう。活き活きとしていてとても素敵だと思う。
「しかしアイツはこのままだとずっと結婚しなさそうで、それが気がかりなんだよ。歳も三十一なのに見合いを勧めても嫌がってばかりだ」
「お見合いかぁ……」
「なんとか良い相手を見つけてやらないとな」
意気込む辰巳さんから視線を逸らせて苦笑いを浮かべた。
今のところ結婚に興味がない人にお見合いをさせようとがんばっても、説き伏せるのはむずかしいのではないだろうか。
私も同じだから、お孫さんがどう思うのか気持ちが読めてしまう。
「冴実ちゃんがうちの孫と結婚してくれたらいいのになぁ」
「え、私?!」
突然降って湧いた話に驚いて、思わず声がひっくり返った。今のは冗談に決まっているのに。
にこにこしている辰巳さんにつられて、私もアハハと乾いた笑みを浮かべた。
「おう、そうしろそうしろ。たっちゃんの孫は男前だぞ?」
「おじいちゃん!」
「冴実にはもったいないけどな」
どうやら祖父は実際に会ったことがあるようだ。だからなのか悪ノリをして好き放題言っている。
さすがに聞き流せなくて、辰巳さんには見えない角度で祖父に向かって顔をしかめた。
どこの誰だかわからない男性よりも友人のお孫さんのほうが親しみがあるだけなのだろうけれど、勝手に話を進められて困るのは私だ。
「冴実ちゃんはうちの孫じゃ不満かい?」
「いえいえ、そうじゃなくて。私なんかとくっ付けられたらお孫さんが気の毒だなって。そのうち趣味を通じて素敵な女性と知り合うかもしれないし」
お孫さんは趣味仲間がたくさんいるだろうから、その気になればお相手はいくらでも見つかるだろう。祖父曰く、顔もイケメンのようだし。
「孫はまとまった時間ができるとひとりでキャンプに出掛けてるらしいんだ。女性と出会いなんかないよ」
どんな趣味なのかさっきから気になっていたけれど、アウトドアレジャーだとわかった。たしかに今はソロキャンプを楽しむ人も多い。
我が社もキャンプ用品を取り扱っているが、売れ行きは好調で年々右肩上がりだ。
「一度、実物を見てみてくれないか?」
「……実物って?」
「実は今日、孫をここに呼んだ。もうすぐ来る」
その言葉を聞いて、私はポカンと口を開けて固まった。
ちょっと待ってほしい。今すぐこの場を逃げ出さない限り、この流れだと今日これから私はお孫さんと初対面することになる。
落ち着こう。辰巳さんが『うちの孫と結婚してくれたらいいのに』なんて言うからあわてたけれど、よく考えてみれば焦る必要はない。
あれは冗談だろうし、もしも本気で言ったのだとしても、私もお孫さんも互いにその気がないのだから大丈夫だ。
「いつも祖父がお世話になっています」と無難にあいさつをしておけばいい。祖父同士が勝手に結婚話を進めるなんて無理に決まっている。
「あのイケメンくんを生で見るのは久しぶりだなぁ」
囲碁に集中しているフリをしているが、祖父が会話に入りながら口元をニヤニヤとさせている。
早く勝敗がついたら帰れるのに、腕組みをしたまま一向に次の手を打たない祖父が恨めしい。
「お孫さん、今日はお休み?」
「土日は休みだ。雨だからキャンプにも行かんのだろう」
ここまで来たら、どんな人なのかこの目で見てみたくなった。
祖父がイケメンだと褒めまくっているのは単なるお世辞とは思えないので、だんだんとその容姿が気になってきたのだ。うちの社長とお孫さんはどちらがイケメンだろう。
でも申し訳ないけれど、我が社の社長には敵わないと思う。
私が今まで目にしてきた男性の中で、社長の顔がダントツで整っていると言い切る自信がある。
普段から社内報やホームページの写真を眺めてうっとりとしている女子社員はたくさんいるし、決して私が社長を贔屓目に見ているわけではない。
それから五分も経たないうちに部屋の入口の扉が開き、ひとりの男性が入って来た。
黒のスリムなパンツと水色のリネンシャツを羽織った背の高い人だ。
「おお、こっちだ、こっち!」
辰巳さんが座ったまま片手を上げて男性に声を掛けた。
傘立てに傘を置くために顔を下げていたので最初はわからなかったのだが、その男性が振り返ってこちらに顔を向けた途端、私はハッと息をのんだ。
「……え?」
視力が落ちたのだろうか。
自分の目がどうかしてしまったのかと思い、手の甲で瞼をゴシゴシと擦ってみる。
「倫治さん、こんにちは。ご無沙汰しています」
「久しぶりに会ってもイケメンは健在だなぁ。あ、これは俺の孫の冴実だ」
今起こっていることが本当に現実なのかわからなくて、椅子から腰を上げたものの、しばし呆然と立ち尽くしてしまった。
「社長……」
我に返って咄嗟に会釈をすると、その言葉を耳にした辰巳さんと祖父が同時に私に視線を寄こした。
「なにを驚いてるんだ?」
「ジニアールの神谷社長……ですよね?」
祖父に返事をしつつ、最後に確認するように男性に問いかけてみたら、彼が戸惑いながらコクリとうなずいた。
やっぱりそうなのかとこの偶然に驚きを隠せずにいると、祖父が私の腕をトントンと叩いて合図を送ってくる。
きちんとあいさつが出来ていなかったことにハタと気付いて背筋を伸ばした。
「香椎 冴実です。おじい様にはいつも祖父がお世話になっております」
「神谷 朝陽です……って、さすがに知ってるか。こちらこそ倫治さんにはお世話になってます」
ジニアールの社長としてではなく、辰巳さんの孫としてあいさつをしてくれたのが私にはとても新鮮に感じた。今だけまるっきり別人のようだ。
「冴実が朝陽くんの会社の社員だったなんて、すごい偶然だな!」
祖父も辰巳さんも本気で仰天しているので、全員この事実には気付いていなかったみたいだ。
「お互い孫の話をしても、仕事のことまで詳しく話さんもんな」
「まさかそんな接点があったなんて夢にも思わんかった」
祖父たちは笑みをたたえたまま顔を見合わせているが、私としてはなんとも居心地が悪い。
気まずくて、視線をどこに向けたらいいかわからなくなった。
「冴実ちゃん、これも縁だよ。朝陽のこと、真剣に考えてみてくれないかな?」
「じいちゃん!」
辰巳さんが私の手を取って真剣に頼んでくるものだから、私は圧倒されて無言で苦笑いを浮かべるのが精一杯だ。
社長もさすがにその言動が行き過ぎていると感じて止めに入っていた。
「俺をわざわざ呼び出したのに、まだ帰らないつもり?」
「倫さんとの勝負がついたらな。もうちょっとかかるから、お前は冴実ちゃんとカフェにでも行ってこい」
辰巳さんの提案を耳にした私の祖父も、それはいいとばかりに大きくうなずいている。
「冴実、さっき甘いもんが食べたいって言ってたよな? ちょうどいい。朝陽くんと一緒に行ってきたらどうだ?」
「冗談はやめてよ。一般社員の私が社長とふたりでなんて恐れ多いよ」
知らない仲じゃないのだろう?と顔で語っている祖父に対し、間髪入れずに言い返した。
社長は社員全員の顔を覚えてはいないだろう。だから私がジニアールで働いていると言っても知らないかもしれない。
どこか見覚えのある顔だともしも思ってもらえているとしたら、それだけでよろこばしいくらいだ。
「そんなにかしこまらなくてもいいよ。俺の孫なんだから。もっと気楽に接してよ」
辰巳さんがそう言って笑いかけてくれるけれど、私はその言葉を鵜呑みにはできない。
だって目の前にいるのは紛れもなく、私が尊敬してやまない憧れの的であるジニアールの社長だから。
「冴実が甘味処に行きたいらしくてな。朝陽くん、すまんが付き合ってやってくれないか?」
「わかりました」
辰巳さんに気を取られている間に、祖父が社長に頼み込んで話をつけてしまっている。
社長はやわらかな笑みをたたえ、迷うことなく首を縦に振っていた。これでは私ひとりがゴネているみたいになる。
「……いいんですか?」
「ああ。行こう。場所がわからないから案内してくれる?」
「はい」
とんでもない展開になり、私は気が動転して心臓がどうにかなりそうだ。
落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせながら、先に歩き出した社長の背中を追った。
外はまだ雨が降っていて、傘をさしつつ社長の隣を歩く。
お店は碁会所からさほど離れていないけれど、歩道には水たまりがあちこちにできていて足元が悪いのが気になった。
「靴、濡れませんでしたか?」
瓦屋根のある和風な建物の花野庵に到着し、テーブル席の椅子に腰を下ろすタイミングで社長にそっと尋ねてみる。
鮮やかな水色のリネンシャツも、雨粒が当たったところは色が濃く変わっていたので、足元はもっと濡れたのではないかと心配になった。
「大丈夫。君は?」
「私は平気です。たいした靴じゃないので」
社長は高級そうなオシャレなスニーカーを履いているが、私は普段使用している履き慣れた靴だ。濡れたってどうってことはない。
それにしても、社長はなんて脚が長いのだろう。
いつの間にかその脚に見惚れていて、外国人みたいなスタイルの良さだなぁと感心してしまう。
顔は恐ろしいほど整っていて、シャープな輪郭とくっきりとした目力のある瞳がカッコいいのは言うまでもないが、特に高い鼻は見惚れるほど形がいい。
髪型は自然に下ろした長めのナチュラルバングで、ふわっと動きが付いていてとてもオシャレだ。
そして彼の声、仕草、目線……そのどれもがどことなくミステリアスで、男性特有の色気が混じっている。
「あっ!」
「ん? どうした?」
「今まで忘れてましたけど、私、今日はスッピンでした。こんなときに限って服装も……」
恥ずかしくて頬を両手で覆い隠せば、それを目にした社長がおかしそうにクツクツと笑った。
家を出るときには、傘を持って祖父を迎えに行くだけだと思っていたから、いつもの普段着で出てきてしまった。
社長に会うとわかっていればきちんとメイクをして綺麗な服を着てきたのに。とは言え、この事態は予測不可能だけれど。
「俺だって休みの日はカジュアルだ」
「いえ、社長はオシャレです。すべてにおいてセンスがいいです」
ジニアールで働いているからこそ、そこはよく知っている。
私に目をかけてくれている伊地知部長と五十嵐専務が、ふたりで口をそろえて社長を“センスの塊”だと語っているのを聞いたことがある。
私からしたらさらにプラスして充分すぎるほどカリスマもあると思う。
「とりあえず注文しよう。ここのオススメはどれ?」
社長はメニューに視線を落としたまま私に問いかけた。
「私は抹茶あんみつをよく頼みます。セットでほうじ茶が付いてくるし、おいしいんですよ」
「じゃあ俺もそうする」
「甘い物はお嫌いじゃなかったですか?」
恐る恐る尋ねる私に、社長は静かにコクリとうなずいた。
男性の中には甘い物が苦手という人も割と多いので、もしかしたら無理に付き合わせたのかもしれないと一瞬肝を冷やしたが大丈夫だったみたいだ。
抹茶あんみつのセットをふたつ注文すると、しばらくして温かいほうじ茶と共に運ばれてきた。
雨が降っているせいか、だんだんと身体が冷えてきていたので、湯気を立てているほうじ茶を口にするとおいしくてホッとする。
「スイーツなんて久しぶりに食べたけど、案外うまい」
「社長のお口に合ってよかったです。特にこの小豆が上品な甘さでおいしいんですよ」
小豆は四国の和三盆という砂糖を使用しているのでやさしい甘さなのだけれど、私にはちょうど良くて気に入っている。
社長にも満足してもらえたのがうれしくて思わず頬が緩んだ。
スイーツを口に運んでいる社長の姿が普段のクールな印象とは違っていて、自然と胸がキュンとする。
黒い器に添えられた左手も、スプーンを持つ右手も、指が長くて本当に綺麗だ。
「休日に社長って呼ばれると変な気分だな」
「す、すみません! ついそう呼んでしまいました。ジニアールで働いていると言っても私のことはご存知ありませんよね」
「知ってるよ。伊地知さんのお気に入りだから」
まさか伊地知部長を通じて社長に知ってもらえているなんて思わなくて私は目を見開いた。
「以前から君の名前は伊地知さんからよく聞いていたし、直接話はしていないが、俺が商品部に行ったときにはあいさつくらいはしてるだろ?」
「はい。記憶に残していただいているなんて……恐縮です」
社長がたまに商品部にやってくることがあるのだけれど、大勢いる社員の顔などいちいち認識していないと考えていた。でもそれは社長に対して失礼だったと反省した。
本当に社員思いな社長なのだと、尊敬の念がさらに深まっていく。
「それにしても君が倫治さんの孫だったとは」
「私も驚きました。社長と辰巳さん、名字が違うのですね」
「……いや、同じだ。じいさんの名前は、神谷辰巳」
社長の説明で急に合点がいった私は小さくウンウンとうなずいた。
「私、辰巳が名字だと思い込んでいました」
どうやら私は盛大に勘違いをしていたらしい。恥ずかしくて顔が熱くなってくる。
「余談だけど、俺のひいばあさんが辰年に身ごもって巳年に産んだから名前を辰巳にしたって聞いた」
話を聞きながら納得する私を見て、社長は「どうでもいいよな」とつぶやいてフフッと笑う。
「碁会所にはよくいらっしゃるんですか?」
私の祖父とは以前にも会ったことがあるようだったので、率直に尋ねてみた。すると社長は抹茶あんみつを口に運びながら首を横に振った。
「今日で三度目。車で迎えに来いって連絡が来ても都合が悪かったら行けないから。一緒に住んでない分、努力しないと疎遠になるってわかってるんだけど」
「仲がいいんですね」
「うちはじいさんの言うことが絶対なんだ。あの人おっかないだろ?」
社長の表情を見る限り、今の発言が冗談ではないとわかる。
だけど私の中では辰巳さんに対してその印象は一切ない。なにか聞き間違えたのだろうか。
「まったく怖くはないです。いつもにこにこしていてすごく温厚な方ですよ? うちの祖父のほうがよほど不愛想です」
「本当に? 俺には厳しいのに君にはやさしいんだな」
社長は盛大にあきれた顔をしているが、私は厳しい辰巳さんの姿が想像できなくて、どう反応していいかわからなかった。
「今日はじいさんと渓流釣りに行くはずだったんだけど、雨が降る予報を聞いて中止にしたんだ。そしたら碁を打ちに行くって言ってて……あっ」
「なんでしょう?」
「もしかして君もあそこに急に呼び出された?」
ピンと来たとばかりに社長は腕組みをしながら私に尋ねた。なにか点と点が線で結ばれたのかもしれない。
「私に傘を持ってくるように電話がありました」
「じいさんたちが企んだな。俺たちは自然に対面するように仕組まれた」
その事実に社長は今気が付いたようだ。
だけど私はその可能性が高いのではないかと、少し前に社長と同じ考えに至っていた。
辰巳さんが『冴実ちゃんがうちの孫と結婚してくれたらいいのになぁ』とお孫さんのことをアピールしてきたあとに『一度、実物を見てみてくれないか?』という発言があったから。
「じいさんは雨が降ることは知っていたから傘を持って行ってるはずなんだよ。なのに迎えに来いっておかしいと思った」
「碁を打ちながら私たちの話をしていたんでしょうね」
祖父は碁を打ち終わったら帰ると口にしていたが、腕組みをしたまま悠長に構えていて、次の一手をなかなか差さなかった。
今になって考えてみると、社長が来るまでわざとゆっくりと勝負を引き延ばしていたとしか思えない。時間稼ぎだったのだ。
「祖父は最初から私たちふたりだけでここに来させようとしてたんだと思います。ご迷惑でしたよね。すみません」
「迷惑なのはうちのじいさんのほうだろう。俺とのことを押し付けるように君に頼んでたのが聞こえてた。本当にすまない」
「謝らないでください。社長はなにも悪くないです」
社長から謝罪を受けるなんて想定外で、私はおろおろと恐縮するばかりだ。
だけど辰巳さんのお孫さんが神谷社長でよかったと思う。まったくの初対面の人ならこんなふうに話せなかっただろう。
そして私にとっては社長と一緒に甘味処を訪れたという、すごく幸せな思い出ができた。
「うちは父が早くに他界しているので、祖父が父親代わりなんです。最近は特に私の結婚のことを気にしていたから……」
「俺のじいさんもそうだ。頼んでいないのに俺の結婚相手を捜してる。参るよ」
辰巳さんは先ほど『見合いを勧めても嫌がる』と話していたので、きっと社長はいろいろと理由を付けて断っているのだと推測できた。
社長ほどの人ならば、その気になれば女性から引く手あまたなのは間違いない。
今は結婚する気がないだけなのだから、辰巳さんがそこまで心配しなくても大丈夫なのに。
「あのさ、呼び方についてなんだけど……じいさんたちの前では“社長”は禁止で」
「……え」
尊敬している社長の言いつけとあらば、なんでも承諾したいところだが、これについてはどうしたものかと首をひねった。
「絶対にじいさんから指摘が入るよ」
「では、なんとお呼びすればいいですか?」
「お互いに下の名前で、さん付けにしようか」
今後こうして碁会所でバッタリと会うことは早々ないと思うけれど、いくらプライベートな時間だとはいえ器用に頭を切り替えられない。
社長の提案を聞いた途端、私は目を丸くして顔の前で手を横にブンブンと振った。
「む、無理です無理です!」
「むずかしくないって。“朝陽さん”って、たった五文字じゃないか」
気が付いたときには社長がテーブルに身を乗り出していて、パーフェクトに整ったその顔を間近で目にしてしまった。
ドキンドキンと大きく心臓が鼓動する。直視できなくなって、思わず視線をテーブルへと下げた。
なんという破壊力なのだろう。あのまま見続けていたら私の心臓はどうなっていたかわからない。
「じいさんたちの前ではくれぐれもそれでよろしく」
黙り込んでいたら、私が渋々承知したと思われたようだ。
どうしよう。祖父たちの前でうまく呼べる自信がないのだけれど。
<第2話 https://note.com/wakaba_natsume/n/n8b458c70d678>
<第3話 https://note.com/wakaba_natsume/n/nca16b614d264>
<第4話 https://note.com/wakaba_natsume/n/n5395412532d0>
<第5話 https://note.com/wakaba_natsume/n/naa5568f70996>
<第6話 https://note.com/wakaba_natsume/n/n90a57ae715fe>
<第7話 https://note.com/wakaba_natsume/n/n4573fa8251bc>
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