父が最後にくれたもの
サイダーが飲めなかった。あの日まではー。
「さっきも電話したのよ。今日は遅かったのね」
受話器越しに聞こえる母の声が、かすかに震えている。
「うん、残業。今週、ちょっと忙しくて…」
落ち着いた声で返しながらも、嫌な予感が脳裏をかすめる。
父が、ふるさとの弘前に帰り、入院したという知らせを受けたのは、雪がちらつく12月初めのことだった。
その時、母から聞いたことは、あまり覚えていない。
ただ、ふるさとを離れて40年近く経っていた父が、帰ったと。
事の重大さを知るには、それだけで十分だった。
眠れぬ一夜が明け、車を飛ばして弘前に向かう。
乾いた高速道路。
窓から伝わる冷気。
カーラジオから聞こえる90年代のヒットソング。
それらすべてが空虚に響いた。
病室に着き、クリーム色の仕切りカーテンをそっと開けると、枕に頭をつけたまま父がゆっくりと振り向いた。
痩せ細った姿に胸がつまる。
何か、何か言わなければ。
「思ったより……元気そうだね……」
笑顔を作り、乾いた声で絞り出した言葉。
あの時ついた嘘を父はどう思っただろうか。
当時住んでいた所から病院までは片道5時間以上かかったが、仕事を休んだりしながら、行かれる限り通った。
クリスマスには小さな灯りがともるツリーを、お正月にはささやかなしめ飾りを持って。
家に戻ると、父が好きだったモスグリーンの毛糸でマフラーを編み、そして祈った。
けれども、父の病状は行くたびに悪くなる一方で、
「血液検査の値が…」
「尿の出が悪くて…」
「静脈瘤が破裂すると…」
医師や看護師の言葉が、一縷の望みを打ち砕いていく。
床ずれが痛々しい背中を撫で、腕や足をさすりながら、何か楽しい話はないかと頭をめぐらすのだが、ちっとも思い浮かばない。
それでも父は私に体を預け、いつも「痛みがやわらぐよ」と言ってくれた。
そんなある日のこと。
病室を覗くと、父がいない。
最悪の事態がよぎる。
慌ててナースステーションに駆け込むと、意外な言葉が返ってきた。
「お父さんなら、今、売店に行ってますよ」
売店……?あの体で、どうやって……?
売店に飛び込み、辺りを見回すと、リクライニング式の車いすに横になったままの父がいた。もこもこの毛布が体をすっぽりと覆っている。
「お父さん、どうしても売店に行くって、ベッドから降りようとして大変だったんですよ」
苦笑いをする看護師が、父が選んだという1本のサイダーを掲げてみせる。
「これが飲みたかったの?」
尋ねる私に、父はいたずらっぽい目をして頷いた。
病室に戻った父の横に座り、サイダーのキャップを回す。
プッシュー!!
一瞬の音の彩りが、無機質な空間を駆けめぐる。
吸い飲みに注ぎ入れ、炭酸を少しでも抜こうと、そのままゆっくり回す。
ほのかな甘い香りが鼻腔を通り抜ける。
はらはらしながら見守る私の前で、父は、ほんのちょっぴり、サイダーに口をつけた。
その時の顔。何かを懐かしむような、どこか誇らしげな表情は今も忘れられない。
「じゃあ、また来るね」
「ああ、またな……」
父との会話は、それが最後になり、東北自動車道が通行止めになるほどの大雪の日に、父は旅立った。
それから私はサイダーが飲めなくなった。
サイダーに限らず、父を連想するものに触れられない日々が続いたのは、1年くらいだろうか。
そんなある日。
仕事帰り、疲れた体を引きずるようにスーパーに立ち寄った私の目に、あの日のサイダーが映った。
きれいに陳列されたそれらが目に入ると、いつもなら咄嗟に目を背ける。
だが、どうしてだろう、その日は引き寄せられるように1本、手に取った。
家に帰るなりガサガサと袋からそのサイダーを取り出すと、そのままグラスも用意せずにキャップをひねった。
プシュッー!!
あの時と同じ音。
同じ匂い。
ゴクゴクゴク……。
病室に差し込む光。
父の顔。
ゴクゴクゴク……。
寂しい。
会いたい。
そう思うのを我慢してたんだ、ずっと…。
ゴクゴクゴク……。
そうして飲み終わったとき、幼いころに行った弘前のねぷた祭りの光景が浮かんだのは、父のいたずらだろうか。
「ヤーヤドー」の掛け声。
夜の町を練り歩く人々。
恐ろしいくらいに大きく感じた扇形のねぷた。
命を燃やすように、色鮮やかに燃えていたねぷた。
その思い出の中に、「ラムネ」があったことに気づいてはっとした。
父は…あの時父は、幼い私や兄と飲んだラムネのことを思い出していたんじゃないだろうか。
たしかあれは、私がせがんで買ってもらったんだ。
祖母が縫ってくれた朝顔柄の浴衣を着て、はしゃいでいた記憶が蘇る。
愛するふるさとで子どもたちと一緒に飲んだ、甘く弾けるような思い出。
その味を最後にもう一度感じたかったのかもしれない。
そう思ったとたん、堪えきれずに私は声をあげて泣いた。
でも、それですっきりしたのか、それからまた私はサイダーを飲めるようになった。というよりむしろ、元気が出ないときには、自然と体が欲してくる。
シュワシュワと涼し気な音を立てるサイダー。
その爽快感が体に、心に、力を貸してくれるのだ。
そして、飲むたびに
「ガンバレヨ」
と励ます父の声が聞こえる気がして、私はそっとサイダーを透かしてみる。
弾けるような光を放つ、「命」を感じながら。
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最後までお読みいただき、ありがとうございました!