第28回読書会『山月記』
6月後半の読書会が終わりました。
ご参加くださった皆さま、ありがとうございました。
課題本を何にするか迷っていた時、
参加者のお一人が、「教育実習で教えたよ」と言われる『山月記』にしました。
わたしもたしかに高校時代に読んだ『山月記』
いやはや、さすがは教科書に載り続け、教え続けられるに値するものでありました。
「高校の時に読んだわ〜」という方が多いとおもいますが、ぜひもう一度お読みください。
で、この短編小説の議論のポイントは、やはりなぜ李徴は虎になったのか?
ということだと思うのですが……
わたしが一読して思ったのは「承認欲求とか認められたい」と思う気持ちって身を滅ぼすんだなってことです。今でいう自己肯定感だと思うんですが、「そのままの自分でいいんだ」って思えれば、役人をやめて、詩人になろうとしても、折り合いをつけてやっていけたのではないのかなとおもうのです。袁サンのように。それはちょっと自分の側に寄せすぎかな。
李徴はもちろん、詩人にもなりたかっただろうけど、それよりも愛されたかったような気がします。だからこそ、家族も愛せなかったのかもしれません。本人もそう言っているし。
己が人間だったなら、飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕すのだ。
参加者のお一人も「周りのものをもっと大事に思えたら、獣にならなかったかも」とおっしゃっていて、「そうだなあ。それこそが人間の証だもんなあ」とおもいました。
それで、「こんなにも人として生きにくいのであれば、いっそ虎になったほうが李徴のためにはいいのではないか」という意見もあって「それもそうだ」と膝を打ちました。獣になれば、苦しまなくて済むもんね。
さらにわたしがぐぐっと惹かれたところは、完全に人間でもなく、完全に虎でもない、それを行き来する李徴の心模様でした。これは子どもと大人を行き来する思春期にも言えるんじゃないかなあとおもいました。
人間にかえる数時間も、日を経るに従って、次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐ろしいことだ。
愛することも苦しむことも、人間であればこそ。
そんな筆者の叫びがどこかから聞こえてくるかのような小説でした。
さて、そんな『山月記』のタイトルは作品中の漢詩の一節にある
此夕渓山対名月
からきているのだそうです。
また、Wikipediaによると、中島敦は、両親の離婚により1歳の時に母と別れ、それからは何人かの継母と暮らしたようです。そして、折り合いも悪く、いつもお母さんを恋しく思っていたと書いてありました。
そういうことを知って読むとまた違った風に見えてくるかもしれません。
では、また!
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