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自分で自分を認めるということの先に

人は多かれ少なかれ他人から評価されることを求めたり、承認されることを期待するものです。それが叶わない時、人は落ち込み、自信を失っていくのような気がします。

わたし自身も誰かに認められたくて認められたくてたまらず、そのために努力し、それにもかかわらず、他の人(大抵は男性)が自分のほしいものをいとも簡単に手に入れていくのを煮えくりかえるはらわたを抱えながら見ていました。苦しかったです。

他者から認められない自分は価値がないと無意識に思っていたので、自分で自分を認めることすらできませんでした。そもそも自分で自分を認めるということがどういうことかすらわかっていませんでした。自分の存在すら条件付きなのです。

40歳をすぎてから、自分自身の身に予想もしなかったことが起こりました。父の死や自分の病気、そして何より子どもの思春期が自分にとっては大きな出来事でした。それに対応することを通して、うっすらと自分で自分を認めるということがわかってきました。どういうことかというと自分は「今の自分」以上でもなければ以下でもないから、今の自分でできることを精一杯やればいいという、ただそれだけことです。具体的にいえば三つあります。

一つは、人の顔色を伺いすぎないということです。不機嫌な人、笑わない人がいただけで今まではソワソワ、ビクビクしてしまっていました。とある取材の時、超絶不機嫌な人がいて、もう取材どころではなくなってしまったことがありました。怖かったのです。自分が未熟なせいだと思いました。そのことをライターの先輩に話したら、「その人の機嫌が悪いのはわかばさんのせいじゃないですよ」と言われて「ほんとそうだな」とおもいました。人の機嫌よりも自分の機嫌を取るべしなのです。付け加えると他人の目が気になるということが「自分がどう見られているか気になる」のであって、それはやはり「自分」が気になるということにほかならないのです。そういう裏表の感情に気づくというのも大きなことでした。

二つ目は、人の言葉で感情を揺り動かしすぎないということです。褒められても舞い上がりすぎない。「仕事ができる」とか「次回もわかばさんに」とか言われたとしても、その人が永遠に雇ってくれて報酬をたくさんくれるわけでもない。「ありがとうございます」と言って次の瞬間忘れる。逆に、失敗したなと思っても、嫌味なことを言われても、次から「こうする」とシステム変更のみして、あまり落ち込まないようにします。そうすれば常にメンタルが一定な自分でいられます。自分をコントロールして、いつも穏やかな自分でいるように心がけています。

最後は、たとえば仕事がうまく行っても失敗しても、誰かに好かれても嫌われても、それが運命だったと思うようにしています。それが今の自分の精一杯だったからしょうがない。そうやって誰かの目や評価から少しずつ自由になっていくことが、わたしにとって自分で自分を認めるということだと考えるようになりました。

でも、最近それだけではダメな気がしています。心持ちだけでは「認められたい病」が弱っている時や、疲れている時を狙ってぶり返して来るのです。先日、前の職場の友人たちとオンラインでおしゃべりをしていたのですが、やはり、昔のことを思い出して「認められたかった病」がぶり返すということがわかりました。ああ自分はまだまだ器が小さいと反省しました。そして、この病気を根治するのに必要なものは何かと考えたら、それは「行動」なんじゃないかとおもい至りました。

自分で自分を認めるということの先にあるもの、それは「行動」です。やりたかったことをやること、詩集を作ったようにひとつひとつ思いを形にしていくこと。そうやって手と頭を動かし続ければ、他人の目など気にならなくなるでしょう。また、勇気が要ることですが、自分がやりたいことを、自分にやらせることが、自分で自分を認めるということにつながっていくとおもいます。心と体は繋がっている。そんなことをおもった2月のはじめでした。


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