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祖父の軍歴証明書を取り寄せた話(前編)

今ごろシベリア行きの準備をしている予定でした。コロナ禍がなければ。

シベリアに行こうと思ったのは、友人の一人が今シベリアで日本語を教えていて、彼女が一時帰国したとき「ぜひ遊びにきて」と言ってくれたのがきっかけです。

シベリアといえば「シベリア抑留」。母方の祖父は終戦後、数年シベリアで捕虜として強制労働を強いられました。わたしには、祖父が生きた場所を自分の目でみてみたいという思いがありました。

祖父は2003年に亡くなりました。

ちょうど、京都で契約社員をしながら日本語教師養成講座を受けていたころです。講座仲間と飲んでカラオケをしていた深夜、叔母から電話があったので、当時大阪にいた大学生だった弟に連絡して、一緒に始発で滋賀の実家に帰ったのでした。

母の実家は私たちの家から車で20分ほどのところにありました。琵琶湖と山に挟まれた坂ばかりの小さな集落です。小さい頃から母の実家へよく行きました。

祖母はわたしが生まれる前にすでに亡くなっていて、祖父は叔父夫婦といとこたちと暮らしていました。賑やかなその家のなかで、無口な祖父は近寄りがたく、生前その口から戦争の話など聞いたことはありませんでした。

わたしは40を過ぎ、仕事に子育てに奮闘する日常のなかで、壮絶な時代を生きた祖父や祖母のことを知りたいと思うようになりました。
特に、日本兵として日中戦争を戦ったであろう祖父のことは、知っておかなくてはいけないのではないかというせき立てられるような気持ちになっていました。

祖父の足跡をたどる旅をしよう。そう決めたものの、わたしが祖父について知っているのは「シベリア帰り」という、母から聞いたその事実だけでした。

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シベリア行きを決めてから、わたしはネットや本で「シベリア抑留」について少しずつ調べるようになりました。調べていると「軍歴証明書」という軍隊における履歴書が存在するということがわかりました。

軍歴証明書は、旧陸軍であれば各都道府県、旧海軍であれば厚生労働省で3等親以内の親族が申請すれば取得可能です。

祖父は旧陸軍だったので、滋賀県庁に問い合わせました。すると、旧軍人の氏名、終戦時の戸籍のある都道府県、申請者の名前を聞かれ、その時点で記録があるかないか調べてくれました。この時点で記録のない旧軍人もいるのだそうです。

祖父の記録はその場で確認がとれました。軍歴証明書を送付してもうために、祖父とわたしが3等親以内であることが証明できる戸籍謄本を送りました。

1ヶ月後、軍歴証明書が届きました。

祖父は昭和15年に応召されていました。京都にある連隊に入った半年後に中国に渡っています。その後、病気になったり、銃創を受けたりして野戦病院を転々としていたとその証明書には書いてありました。
その後、内地還送となり大阪や京都の陸軍病院に収容されたあと、昭和18年に召集解除となっています。軍歴証明書をみた母は「このときにお母ちゃん(祖母)と結婚したんやな」と小さな声でつぶやきました。

わたしの全く知らない祖父の姿が軍歴証明書にありました。でも、その文字の羅列から、兵隊だった祖父をうまく頭の中に描くことはできませんでした。

わたしの中での祖父は、だんだん畑をのあぜ道を草刈機を手に黙って歩く祖父でした。軍服をきて銃を手に進軍しているのを思い浮かべようとしても、それは、どこかでみた映画のワンシーンのように現実感のないものになるばかりでした。

やはり、話を聞いておくべきだったな。

と今となっては後悔しかありません。わたしがもっと早く、祖父の存在の大きさに気づいておけば…。棺のなかで眠る祖父に別れを告げたときでさえ、気がつくことができませんでした。

今年、ロシアに行くことはどうやらできそうにありませんが、近いうちに必ず行くつもりです。それまで、調べたり読んだり、書いたりすることで、少しでも兵隊だった祖父に近づくことができたらと思っています。

琵琶湖での漁や農業をしながら新妻の祖母と暮らしていた祖父は再び応召となります。昭和19年のことでした。

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日本語教師でライターが日常をみつめるエッセイです。思春期子育て、仕事、生き方などについて書きます。

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