言葉を考える①
言葉は人間が作り出した優秀な道具のひとつだと思う。
言葉は人間にとっては必要不可欠だ。もっと言えばコミュニケーションを取らなければならないとも言える。生まれたばかりの赤子たちに声を掛けずに、お世話しているだけでは息絶えてしまう。なんてこともあるそうだ。
言葉は人間にとって便利な道具である。が、その反面凶器にもなり得てしまう。「言葉は凶器」と誰かが言っていた。使い方を間違えれば、刃物のように人の心に刺さり死へ追いやってしまうことも、最近では稀ではなくなっている。言葉によって死に追いやってしまうことが出来てしまうのが現実だ。だが、そのまた反面、正しく使えば人の暮らしを豊かに、幸福に、また想像もできない世界へ連れて行ってくれる。
ここ数年ITの発展により、個人の思いを発信することが多く見られるようになった。自己主張の強いとは言えない日本人が、自分の名を伏せ、匿名での投稿も数多く見られる。楽しかったこと、嬉しかったこと、上手くいったこと。些細な喜びを与えられるものが数多くを占めれば良かったのだろう。しかし、現実はそんな都合よく動いてはくれなかったようだ。昨今のSNSを見ると感情だけをぶつけあっているように見えるのは、私だけだろうか。見ていて面白みなど全くない。むしろ気持ちが悪い。見ず知らずの公人でも何でもない人間の発言や行動に対して、自分の姿形は隠したまま赤の他人を攻撃している。その軽薄な言葉で人を死に追いやることの威力があることも想像することのできないのか。義理人情などすっかり忘れてしまった同じ日本人が、画面越しにいることに恥ずかしささえ感じる。人間の悲しい性なのか、現実世界だけでなくネット世界でも醜く争っている、弱い者いじめを始め批判や誹謗中傷の言葉が溢れかえっている。攻撃的な言葉が使われ、己の正義という大義名分の基、言葉の刃が振り回されているように思えてならない。おそらく、やっている本人たちは自分の正義を信じ、貫いているつもりなので気持ちが良いことだろう。それがまた、イジメに繋がっているように見えて胸が痛む。なぜならここ数年は年齢に問わず、自ら命を絶ってしまう人が珍しくなくなってきている。言葉によって追い詰められ、選択肢を無くした挙句、最後の手段として自死を選択してしまう。そういった事例があとを絶たない。社会問題にもなり、ニュースなどでも大きく取り沙汰されている。それにも拘らず、未だに意識の軽薄な一部の人間によって、淘汰される人が悲惨な最期を選択してしまっている現実がある。
気持ちが落ちてしまうと判断能力が著しく低下する。これは脳へのダメージがあるからだ。そして、周囲への相談ができなくなり、助けを求めることも出来なくなっていく。辛さに勝てず死を選択してしまう人の気持ちが理解できない訳ではない。言葉の重みを理解せず、尖った言葉を軽々しく使ってしまうところに人間性の低さを感じてしまう。また、社会全体がそういった傾向に強く出てきていると思う。ITの進化によって人間の醜態が炙り出されてしまったように思う。こういった人間の弱さが、お門違いの正義感によって人が亡くなっている世の中を哀れんでいる。
先に申し上げた通り言葉は凶器にもなり得てしまう。言葉の使い方で、人間性も、学びの浅さも露呈してしまっているように思う。言葉には果てしない力があると私は思っている。
悲しみに暮れている家族や友人を励まし奮い立たせるのも、死に至らしめることが出来るのも、また言葉である。使い方ひとつで人を幸せにすることも、また不幸にすることも、また不幸のどん底に落とすこともできてしまう。
ここで私は今一度言葉の使い方を考え直したい。
次の記事で私が導き出した答えを掲載していきたいと思います。
興味があれば読んでみてください。