本当の愛、真実の愛を語りたいなら、愛の定義をしなければならない
はろーこんばんわ。
本当の愛、
真実の愛。
そういったわけのわからないことを
のたまう人はかなりいます。
彼らがわけのわからないこと、
と思われてしまうのは
言葉の定義をまったくしていないからです。
◆思考されない言葉
愛という言葉を、
普段使っていて
それが何を指すのか。
これをきちんと
論理的な定義で
語れる人というのは
ほとんどいません。
これはなぜかというと、
・そんなこと考えないから
愛がどういったもので、
どんな行為を指すのか。
そんなことを考える人は、
普段から行動について
思考をしている人くらいです。
普通の人はまったくもって
そんなことをしません。
中学生とか、
フラれたときとかに
ちょっと考えるくらいです。
しかし、
すぐに忘れてしまうでしょう。
だから愛の言葉の定義なんて
考えるわけがありません。
しかも
考えたところで
相手に伝わりません。
相手はやはり、
愛という言葉、
そしてその意味、定義について
考えているわけがないからです。
◆指し示す意味
愛という言葉を
普段使っている人たちが
どういう定義で使っているか、
すこし考えてみましょう。
大抵は
優しく接する、
思いやりを持って接する。
そういった意味合いで使われます。
・相手について考えて、
その人が良く過ごせるように接する
こんな意味合いで使われているでしょう。
愛を持って接する、
という場合に使う際の愛は
この定義でよいように思えます。
基本的には、
自分のリソースを相手に費やす。
これが愛であり、
資本に毒された今の世でも
それは変わりません。
例えば輝夜姫は、
無理難題をこなした人を
夫にすると言いました。
これはどれだけリソースを
自身に費やしてくれるか、
といった点を見ています。
ただ、
リソースは割合であって
単純な量の比較ではないことが
愛において重要になってきます。
愛はお金でどうこう、
みたいな話があるように
成金がいくらお金を積んでも
貧乏で誠実な男が奪っていくことが
美談にされるように。
全てをなげうつくらいの勢い、
というのが愛の多寡となります。
Vtuberへのスパチャは、
匿名のせいでその割合が
さっぱり伝わらず、
量による比較になっているのが
ちょっと恐ろしいですね。
◆本当の愛、真実の愛とは
では、
タイトルに書いた
本当の愛、真実の愛。
これはなんでしょうか。
まず一つわかることは、
・誰も定義しないから、
人によって違う
この時点で
語る気が失せるくらいには
ふざけた言葉です。
しかし、
誰もが真実の愛と思えるのは
・すべてを投げうってでも
相手に尽くす行為
親の介護を自分でする、
みたいな感じの行為は
誰もが真実の愛というでしょう。
愛を与えることを
周りから強いられた行動とも
とれますけどね。
これらから、
わたしなりにきちんと定義してみましょう。
・本当の愛、真実の愛は
与える側がそう認知していればそうなる
・受け取る側がそうは思っていないとしても、
そこは関係がない
他者からその人が
どれだけリソースを割いているかは
さっぱりわかりません。
その人の心理的コストが、
他者からはわからないからです。
単純な労働や、
資本による比較は
所詮他者との比較です。
そしてその基準は、
往々にしてあっているとは言えません。
親の心子不知、
というように。
相手の認知、観点の世界であって
そこは自分の認知、観点の世界ではない。
それらが介入すれば、
それは真実の愛とはなりえないでしょう。
まあ、
正直に言ってしまえば
・立派に見せるため、
他人を非難するための言葉遊び
この意味合いを超えて使われることが
ないので語る意味もあまりなさそうですけどね。
それではまた。