02_万物の法則とミュンヒハウゼンのトリレンマ
1.万物の法則
「いったいこれは何なのか?」
さて、この問いに対して現状、最もまともな説明ができているのは何でしょうか?
それは、間違いなく、自然科学を除いて他にないでしょう。
我々は自然科学による還元論的な方法によって、この世界の成り立ちを説明しようとしてきました。
この世界を説明する万物の理論は未だ完全に⾒つかってはいませんが、一般相対論、そして標準模型はかなりのところまでは現実世界の理論的説明に成功していますし、その応用が現在の⽂明社会を支えていることは疑う余地もありません。また、それらを統合する理論の候補もいくつか考えられているようです。超弦理論やループ量⼦重⼒理論は有名だと思います。
この世界はなぜだか分からないけど不思議なことに、なんらかの自然法則に規則的に従っていて、そしてよりミクロな構造からマクロな構造が現れ出るようにできているようです。もちろん、⼼とか意識現象とかクオリアとか、そういう⾒⽅で説明ができるのかどうか不明なものもありますが、基本的には、これは普遍的な性質である、と⾔い切ってしまってよいように思われます。
そしてこの奇妙な事実にこそ、存在の謎を探るカギが隠されているはずです。
では、そのようにして、この世界のあらゆる全てをよりミクロな構造に還元していった結果、最終的に残るのは、いったい何でしょうか?
すなわち、この世界の「万物の法則」なるものが仮にみつかったとして、それはいったいどのような姿をしているのでしょうか?
……もちろん、そんなことは世界中の物理学者が知りたがっていることですし、具体的にどういう姿をしているかなんてここでわかるわけもないのですが、それが「万物の法則」であるためにはどのような姿をしていなければならないか、という要請として考えてみると、その輪郭は漠然と描けると思います。
まず、万物の法則においては、この世界のあらゆる全て、あらゆる「もの」が統一されていなければなりません。
例えば、「コップ」「リンゴ」「分子」「原子」……、等々といったものは「もの」に該当すると考えられますが、現在の標準模型においては、これらは「素粒子」や「場」として統一的に理解されます。しかし、「やたらにたくさん種類のある素粒子」「重力場」「空間・時間」といたものは、標準模型においては統一されていない「もの」です。
一方、万物理論の候補とされている超弦理論においては、ヒモの振動パターンとして「素粒⼦の種類」を説明していますし、重⼒場を含む四つの⼒を統一して理解できる可能性が示されています。さらに、「空間」といったものも超弦理論の⽂脈からでてきたホログラフィ原理によれば、1 次元下の量⼦多体系から創発されたものであることが示唆されているようです。また「時間」についても、ループ量⼦重⼒理論では時間は⾒せかけのものにすぎない、とされているようです。
……等々、このようにしてひたすらあらゆる「もの」を分子、原子、核子、素粒子、ヒモ、……とミクロな構造へと還元していくと、その極地である「万物の法則」においては、おそらくあらゆるすべての「もの」――物質、力、空間、時間、等々――は統一され、あるなんらかの根源的な「要素」、そして要素同士の物理的規則に従ったなんらかの「関係」として説明されるはずです。
さて、では、そのような「万物の法則」が仮にみつかったとして、それで「一体これは何なのか?」を完全に説明することができるでしょうか?
もちろん、まだ疑問は残ります。
そのような「万物の法則」がこの宇宙の全てを完全に説明するモデルであることがわかったとして、依然として、「ではいったい全体なぜ、そのような『要素』だとか『関係』だとかいう謎なものが存在しているのか、それは一体どこからやって来たのか︖︖」という問いが残り続けるからです。
自然科学による⽅法論の最終到達地点である「万物の法則」は、結局のところここで⾏き詰まってしまうようです。
しかしだからといって、自然法則それ自体を生成する「メタ自然法則」だの、「神」だの、「我々の宇宙をコンピューター上でシミュレーションしているメタ世界の住人」だのと、原因をよりメタな階層に求めてみたところで、たんに根本原因を先送りにしているに過ぎず、「ではその『メタ自然法則』だの『神』だの『メタ世界の住人』だのはそもそもどこから来たのか︖」という疑問は依然として残り続けます。そうすると、それを説明するためにさらにメタな階層のモデルが必要になり、ではその原因は︖ ………と、どれだけメタな理屈を考えてみても、結局は永遠に根本原因にたどり着くことができないことがわかります。
このように、還元論的に物事の原因をひたすら遡ろうとすると、最終的にはミュンヒハウゼンのトリレンマと呼ばれるものに突き当たってしまうことが知られています。
2.ミュンヒハウゼンのトリレンマ
還元論的にこの世界の根本原因を突き詰めて考えていくと、おそらく「万物の法則」に⾏き着くことになると考えられますが、「ではなぜその『万物の法則』とやらは存在するのか」という疑問がやはり生じてしまう、ということを前節でみてきました。
そしてその問いに答えようとすると、以下の「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」と呼ばれるものに陥ってしまうことが知られているようです。
無限後退:……それを説明する仕組みの原因を説明する仕組みの原因を説明する……(以下無限に続く?)
無根拠な前提を置く:宇宙は無前提に存在する「神」によって創造された(?)
原因の循環(トートロジー):宇宙の原因は宇宙それ自体であって、原因がループしている(?)
……と、いずれにせよ納得できる根本原因には行き着くことができないことがわかると思います。
ところで、これはおそらくですが、「なんでこの世界は存在するのか」「なぜ自然法則はあるのか」「なぜ何かがあるのか」といったことを考える人はもちろんたくさんいて、なぜなぜ問答を繰り返して原因を遡り、答えにたどり着こうとするのですが、⼤抵みんな最終的にこのトリレンマに突き当たってしまい、結局は「これ以上考えたところで答えはでない」「そうなっているからそうなってるんや」「世界が存在することに理由なんてない」「ナマの事実として受け入れるしかない」「そんなものは疑似問題だ」「人間にはそれを知ることは出来ない」などと思考停止して諦めてしまうのではないかと思います。
しかし、私はこれからなんとか頑張って、この壁を乗り越えられないか試みようと思います。
さて、ということでこのトリレンマをなんとかしようと再び眺めてみるのですが、よくみると、1.無限後退は3.原因の循環(トートロジー)と同じ事を言っているのではないか、ということにまず気がつきます。
考えてみると、原因が無限に後退する、ということは、別の見方からすれば「無限に存在する、ありとあらゆる原因が可能である」ということでもあるはずです。そうすると、その無限に存在する原因の中には、自分自身とまったく同じ物も含まれるはずです(︕)。
つまり、1.と3.は1'.原因の循環(=無限後退)へと統一できると考えられます。
さらに、1'.と2.を見比べてみると、そもそも1'.原因の循環(=無限後退)が成立していると考える事は、暗に2.無根拠な前提を置くを前提としていることに気がつきます。なぜならなんらかの循環構造が存在している時点で、その循環構造が存在する、という無根拠な前提を置いているからです。
そう考えると、1'.と2.も先ほどと同様に統合できてしまうこととなり、結局、ミュンヒハウゼンのトリレンマは以下の「唯一つの真実」に収斂してしまうことになります。
原因の循環(=無限後退)構造が、無根拠に存在する。
とりあえず、ここでは便宜上、この無根拠的に存在する原因の循環(=無限後退)構造の事を、<根源的ループ>と名づけることにしたいと思います(これは後のための伏線です)。
……しかし、これで何か解決されたのでしょうか?
解決されたのかもしれませんが、やはりなにか釈然としません。「<根源的ループ>それ自体が、無根拠な前提としてある」などと決めつけてしまうことは、思考停止しているだけのように思えてしまうのです。
しかし、だからといってじゃあその原因は、と考えると、やはり「無限後退」か「無根拠な前提」か「原因の循環」か、といったトリレンマに陥ってしまうことになります。そして、どこまで行っても、よりメタな構造につかまってしまい、永遠にこの「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」の呪縛からは逃れられないように思えてきます。
果たして、ここから逃れる術はないのでしょうか……?
……実は、そこから逃れる⽅法が、おそらく一つだけあると考えられます。
そもそも我々がなぜミュンヒハウゼンのトリレンマに陥ってしまったのか、ということを考えると、それは物事をなぜなぜ分析によって何らかの原因に還元し続けようとしたからです。つまり、「なぜ︖」を問い続ける限り、必ずトリレンマに陥ってしまいます。
ということは、トリレンマを回避するには、そもそもの「なぜ︖」という問い自体が生まれることを回避する以外に⽅法はない、ということが分かります。
しかし逆に考えると、そうすればトリレンマに陥ることはもうなくなるはず、ということも同様に⾔えると考えられるのです。
どういうことかというと、最早「なぜ︖」という問が生まれる余地のない唯一のあり⽅、すなわち「あらゆる恣意性を排した『唯一』のあり⽅」というものを考えればよいのです。そうすれば、「なぜそれはあるのか︖」と考える必要もなくなりますし、無根拠でそれが存在することに問題はなくなります。なぜならそれしかあり得ないのですから。
では、それはいったいどんなあり⽅でしょうか。
単純に考えてみると、それは「すべてがある」あるいは「なにもない」しかないように思われます。
3.<すべて>
「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」を避けるために色々考えようとしても、結局はよりメタな構造の中で再びトリレンマにつかまってしまい、そのループには際限がない、ということをみてきました。そして、そのような構造は、おそらく「なぜ︖」を問い続ける限り、永遠に逃れることができません。
よって、ミュンヒハウゼンのトリレンマを避けるためには、そもそもの「なぜ︖」という疑問が生じることを回避する以外にはないことが分かります。そのためにはどうやら、「あらゆる恣意性を排した唯一のあり⽅」なるものを考える必要があるのでした。
その候補として、前節では(素朴に考えて)次の二つが浮かび上がりました。
すべてがある
なにもない
……確かに、この二つは明らかに特別であり、「恣意性を排した」という意味では、表裏一体で極北となるような状態であるように思われます。
しかし、よく考えてみると、仮にどちらかが正しいとして、これで本当にトリレンマを避けることができているのでしょうか︖
仮に「すべてがある」としたなら、「では、なぜ『すべてがある』のか︖」という問いが生じるように思えますし、「なにもない」であるなら、「では、なぜ『なにもない』のか︖」という問いが生じてしまいます。
結局、「すべてがある」あるいは「なにもない」のどちらかであるとするなら、依然として恣意性は残り続けることになってしまいます。というかよく考えてみれば、仮にどちらを選択したとしても、「では、なぜ『すべてがある』または『なにもない』以外の、『○○がある』状態ではないのか︖」という問いもやはり生じてしまうはずです。
つまり候補がいくつかある時点で、「いずれかの候補を選択する」、という恣意性からは逃れられていない、ということです。
では、どのようにすればこの恣意性から逃れることができるのでしょうか?
ここで、いわゆる「コペルニクスの原理」を考えてみます。
コペルニクスの原理とは、要するに「何も特別ではない」ということです。
私は数ある人間の一人に過ぎませんし、日本は数ある国の一つに過ぎませんし、太陽は数ある恒星のひとつに過ぎませんし、天の川銀河は数ある銀河のひとつに過ぎません。それらの内のひとつがなぜだか知らないけれどたまたま「この私」「この国」「この恒星系」「この銀河系」として「選択」されたのですが、それは単なる偶然に過ぎません。
恣意性を排除する、ということは、とどのつまり、「選択」を「偶然」に落とし込むことである、と⾔えると思います。すなわち、コペルニクスの原理に従う事で、恣意性を排除したあり方を決定できるのではないか、と考えられます。
ということでコペルニクスの原理に従ってみます。
つまり、「私」「日本」「太陽」「銀河系」と同じように、「○○」、「何か」、「すべてがある」、「なにもない」、等々を扱えば良いのです。
すなわち、その答えは、結局以下になると⾔えると思います。
「『すべてがある』かつ『何かがある』かつ『なにもない』、そのようなありとあらゆる可能性がすべて重なりあって不確定(=何も「選択」されていない)な状態の中から、たまたま偶然「これ」が「選択」された。」
です。
……いやいや、「『すべてがある』かつ『何かがある』かつ『なにもない』、そのようなありとあらゆる可能性がすべて重なりあって不確定な状態」とはいったいなんなんだ、そしてなぜその中から「これ」が選択されたんだ、「可能性」ってなんだ、「選択」とはいったいなんだ︖ いったい何がどうなって「選択」などという不可解なことが起こるんだ︖︖︖︖︖
と、色々疑問がわいてくるかと思いますが、それは次節以降でみていくとして、とりあえず、そのような状態こそがこの節の問いであった「あらゆる恣意性を排した唯一のあり⽅」に該当するのではないかと思われます。
そこでこの状態にとりあえず(⻑いので)名前をつけたいと思います。
以降、この状態(あるいは構造)をここでは<すべて>と呼ぶことにします。
では、なぜ<すべて>なるものは存在しているのでしょうか……?
つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?