脳梗塞のショック期 〜part2〜
今回は臨死体験などはいっさい無かったです。体は魂の入れ物という事を実感するまでの忘備録として。
しばらく死と隣合わせのような辛い日々が続き、夜は怖くてほとんど眠れず、辛く苦しい日々が続きます。ある日、母が茅ヶ崎のアパートを引き払うので何かとって置くものはある?と聞かれました。その時は話せないし、絶望していたので、何もいらないと思った。所詮物でしょ位の気持ちだった。
10年間以上のお気に入りの物、コレクション。
出会えた本。大切なノート。お気に入りの服。全て失ったと思った。大好きな仕事も、友人も、全てを失ったと思った。けど何も感じなかかった。ただ今日を生き延びる事しか、考えられなかった。
よく当時の担当リハビリさんに、「感情が無」と、からかわれたけどホントその通り。
まだ目がちゃんと見えない頃から歩く練習をさせてくれた。
横になってるのが辛い私は、装具を付けても歩ける、縦になれる時間が本当に嬉しかった。
頭を上げて欲しい、リクライニングのベッドのリモコンもすぐ側にあるのに押せない。伝えられない。
ナースコールを押す力もない。けど意識はある。悲しかな、耳と鼻は普通のままなので、聞きたくない会話も聞こえるし、嗅ぎたくない匂いもする。話せないので何もわからないと思われ、目の前で悪口を言われたり、こうなったのも自業自得、日々の不摂生のせいでしょ。など心ない言葉をかけられても、何も言えない。不摂生してたかな?確かにこの数ヶ月、外食が多かったな。とか、お酒かな?なんて考えた。
毎日のリハビリの成果かかな、だんだん感情を顔にだせるようになり、夜勤の看護師さんに「堀口さんわかる?」と言われ、初めて今まで無だった事にきがつく。
やがて頭をあげて欲しい、が、1人の介護士さんに通じて、その方は顔をみるといつも上げてくれるようになった。が、消灯時間になると良かれと思い、いつも下げられてしまう。
そして、吸引の必要がなくなったころ。私はひとつの言葉だけ話せるようになった。
「ありがとう」 シンプルだけど、これさえ言えれば気がすむ。聞きとるのも努力がいる声で、だけど看護師さんや介護士さんはわかってくれた。
数日がして、友人がお見舞いに来てくれた。ビックリした。連絡の取れなくなった私を案じて、実家に連絡を入れてくれ、Facebookで友人たちに知らせまとめてくれてたのだ。それを知ったロミロミの先生が祈りの会を作ってくれてた。
毎晩エネルギーを感じ、生きる気力とまた歩きたいという願望が強くわき、サポートを感じた。
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