成蹊大学硬式野球部・大下裕太郎投手インタビュー(前)
東都大学野球連盟の三部リーグで、独特の存在感を放つ成蹊大学硬式野球部。
その成蹊大学で、1年の時からリリーフ投手として腕を振り続けてきた、大下裕太郎投手。
三部・四部入替戦の神宮球場のマウンドに立つことも多く、その快速球と堂々たるマウンドさばきは東都三部・四部界隈で密かな注目を集めてきました。
今回はそんな大下投手にインタビューし、これまでの野球人生を振り返っていただきました。
本日はまず前編。大下さんの野球経歴と、球速アップのきっかけをつかんだ2年秋のリーグ戦までについて語られます!
(文中における人名は敬称略のことがあります)
PROFILE
おおしたゆうたろう◎2001年生まれ。八王子高~成蹊大。八王子高では投手としてプレーするが、公式戦登板はなかった。成蹊大では1年春よりリリーフとして登板。最速140キロ台中盤の速球と変化球を武器に、成蹊大のリリーフ陣を支えた。法学部法律学科4年。
高校まで基本的にはサイドです
――高校までの野球経歴を教えてください。
大下さん
東京都出身です。小学校2年生の時から野球を始めました。1年生の時から親に「野球をやりたい」と伝え続けていて、2年生の時から杉並区立桃井第四小学校の軟式野球チーム、「桃四ジャガーズ」に入りました。土日の午前中に小学校のグラウンドで練習していました。小学校の時は、低学年の時は杉並区の大会で準優勝が最高成績で、高学年の時は杉並区民祭で優勝しました。ポジションは、基本的にはライトでした。ピッチャーも何試合かしましたが、ダメでしたね。ストライクは入っていましたが、何回か肘の怪我もあって。
小学校の同年代では、大学まで硬式野球をやった人は私だけですかね。明大の準硬式でやっていた子はいましたが。東都三部に関連する話をすると、総監督の方が、芝浦工大が強い時の選手で、その後熊谷組でもプレーされた方でしたね。あと、私のチームが優勝した大会で、のちに成蹊大で一緒になる1個上のキャッチャーの仲田(亮太、注1)と対戦していましたね。
中学校では、武蔵野府中ボーイズでプレーしました。自分の代が2期生でしたね。監督が凄い方でした。五十嵐(剛、注2)監督という方でしたが、クラブチームを何個も渡り歩いた凄い経歴の方でした。イメージは今の日本ハムの新庄剛志監督ですね。ああいうイメージです。私の頃だと、10年以上前のシニアは「昭和」っぽい雰囲気も残っているチームも多い中、全然違いましたね。五十嵐監督ご自身が野球が凄く上手くて、自分で「こうやるんだよ」と示すことができる。それがよかったのと、小学生の同級生が5人くらい行くことになり、自分もそこにしようと思い、入団しました。山梨県の上野原市で練習していたり、府中市民球場で練習することもありましたね。ピッチャーを本格的にやり始めたのはこの時でした。あとはキャッチャー、ファースト、ライト、レフトは試合でやりましたね。ややピッチャーとライトが多かったですかね。小学校から一緒に上がった子がエースで、自分がもう1枚という感じでした。キャッチャーが多い時期もありましたね。東都三部関連で言うと、帝京平成大の菊池(啓太、注3)が一緒にやってましたね。当時は、サイドスローのピッチャーでした。
(注1)仲田亮太…成蹊高~成蹊大。元成蹊大捕手。
(注2)五十嵐剛…国士館高~関東学園大~キャプティ~航空自衛隊府中クラブ~全府中野球俱楽部~茨城ゴールデンゴールズ~岩手21赤べこ野球軍団~茨城ゴールデンゴールズ~鉄腕硬式野球部。現武蔵野府中ボーイズ会長兼監督。
(注3)菊池啓太…啓明学園高。現帝京平成大外野手。
――えぇ、サイドスローだったんですか!
大下さん
そうでしたね。最初は上から投げていましたが。強豪の町田ボーイズにボコボコに打たれたあと、変えた方がいいと。骨盤の使い方が横だったようで、「サイドにしてみな」と言われたらずっとサイドで…。そのあとは高校まで基本的にはサイドです。今は上から投げていますが、逆に中学時代、高校時代に一緒だった人からすると、逆に驚かれるんですよね。
高校では八王子学園八王子高校に進学しました。第一志望の高校に落ちて、野球と勉強をちゃんとできる高校と考えて、八王子高校に進学しました。私の入学前年(2016年)には夏の甲子園にも出場した強豪校ですので、同級生の部員が28人いましたが、一般入試で入学したのは私含めて4人でしたね。
練習初日は、中学時代のカバンで来るのですが、知っているチームのカバンばかりでしたね。「凄いところ入ったんじゃないか?」と思いましたね。町田ボーイズの主力も3人くらいいたし、海老名シニアとか、武蔵府中シニアとか…強豪がたくさんいて「マジか…」となりました。空気感が違いすぎましたね。「すげー」ってなってました。
当時の3年生も凄かったんですよね。米原(大地、注4)さん、早乙女(大輝、注5)さんという甲子園に出たときのダブルエースがそのまま残っていましたし、他にもとんでもない先輩方がいましたからね。
1年生の時は、ピッチャーはグラウンドの横の坂をダッシュしていた印象が強いですね。
同級生で、全国3位に入ったシニアのエースがいましたが、その投手がサイドスローだったんですよね。私はその子とタイプがかぶっていました。ですので、ひとまず上から投げることにしました。初登板は、ゴールデンウィークの、島根県の開星高とのオープン戦でしたね。
ただ、上から投げているうちにイップスっぽくなり、投げられなくなる手前になってしまって、確か2年の冬休み頃にサイドスローに戻しました。ほぼスライダーとシュートで勝負する、真っすぐを投げない投手でした。サイドに戻してよかったとは思っています。最後まで、夏の大会のメンバー争いには食い込めたので。上から投げていたらそれは難しかったと思います。
結局3年間ベンチ入りはできず、公式戦登板はできませんでした。3年間で印象に残っている練習試合は、3年の時の関西遠征でしたかね。色々な関西の強豪校と練習試合をするのですが、そのあと全国優勝する履正社高とのオープン戦で登板しました。1番の桃谷(惟吹、注6)はウチの左ピッチャーのインズバをえげつない打球でバックスクリーンに突き刺してて「すげえな」と。履正社の先発は岩崎(峻典、注7)くんでしたね。その試合で私は、野口(海音、注8)と対戦し、バット投げ付きのホームランを打たれましたね。130メートルくらい飛ばされました。履正社高のグラウンドには、レフトの奥に林があるんですが、そこに消えていきましたね…。
八王子高の同級生で社会人野球を続けているのは、松野(海舟、注9)、坂口(雅哉、注10)、近岡(英訓、注11)ですね。松野と坂口は社会人で続けているのは全然驚かないんですが、正直な話をすると、近岡は本当に大学で伸びたなと思います。近岡とは未だに仲が良いです。凄いメンバーに囲まれて野球をやっていたな、と思います。
(注4)米原大地…八王子高~明大。元明治安田投手。
(注5)早乙女大輝…八王子高。元明星大投手。
(注6)桃谷惟吹…履正社高~立命大。現ヤマハ外野手。
(注7)岩崎峻典…履正社高~東洋大。現福岡ソフトバンクホークス投手。
(注8)野口海音…履正社高。元大阪ガス捕手、内野手。
(注9)松野海舟…八王子高~桐蔭横浜大。現JR東海内野手。
(注10)坂口雅哉…八王子高~仙台大。現日本製紙石巻捕手。
(注11)近岡英訓…八王子高~明治学院大。現日本通運外野手。
「速い球投げたいなぁ」と思って、オーバースローに戻しました
――成蹊大に進学された経緯を教えていただけますか。
大下さん
最後の夏が不完全燃焼だったんですよね。3回戦で、帝京八王子高に負けて終わったのですが…。八王子市内での私学のリーグ戦では完勝していた相手だったのですが、そこに負けてしまって。野球ができる大学を探して、八王子高の1個上の先輩の甲斐(秀聖、注12)さんがいたのもあり、成蹊大を第一志望で受験に臨みました。しかし、見事に受験校全部不合格でしたね。
浪人の時は東京六大学を志望していましたが、滑り止めの成蹊に吸い込まれましたね…。
浪人した末に入学したので、八王子高で後輩だった阿部(湖大朗、注13)は同級生になりました。高校の時は「大下さん」とか言っていたのに、大学では「おい、お前」とか言ってきて、「そんな変わる?」と思いましたけどね(笑)。
(注12)甲斐秀聖…八王子高。元成蹊大投手。
(注13)阿部湖大朗…八王子高。現成蹊大投手、主務。
――そうか、その3人の投手陣は言われてみれば八王子高~成蹊大ですね。ここでつながってくるのか…。
入部したころの成蹊大の印象をお教えいただけますか。
大下さん
甲斐さんに連絡をとって、入学前の練習に参加しましたね。初練習に参加した日に、寺山(一稀、注14)、吉澤(晴也、注15)も参加していて、「おっ、やる気ある人いるんだ」と思いましたね。のちのエースと4番です。
高校では、ものすごい選手たちに囲まれていたわけですが、大学に入って以降の部の印象としては、正直「大丈夫かこれ」という感じでした。ちょっと緩すぎないかと。平気で練習に来ない人もいましたし…。「これが大学か、自由だな」とも思いましたが。
(注14)寺山一稀…横須賀学院高。現成蹊大投手。
(注15)吉澤晴也…浦和麗明高。現成蹊大捕手。
――1年の春季リーグ戦の思い出を教えてください。
大下さん
八王子高の同級生の川内(脩平、注16)と小林(大成、注17)と一緒に浪人していたのですが、特に小林とはよくキャッチボールをしていました。その時に、「速い球投げたいなぁ」と思って、オーバースローに戻しました。割と投げられるじゃないかと思って、大学でもそのままオーバースローでいきました。イップスが完全に治っていたわけではなかったので、腕振れる場所を探しながら、だましだましやっていましたね。
春先のオープン戦も連れて行ってもらって、当時の花岡(拓哉、注18)学生監督からも「使うぞ」と言われていましたね。
1年春の初登板は、青学大のグラウンドでやった学習院大1回戦のようですね。今記録を見たら、1回2/3で四球3、三振2で自責点0。私らしいですね(笑)。1‐8のビハインドだったので「楽しんで投げてこようかな」くらいの気持ちでしたね。三振を取ったのも覚えています。「意外とやれるな」と思いました。
(注16)川内脩平…八王子高。現早大学生コーチ。
(注17)小林大成…八王子高。現立命大投手。
(注18)花岡拓哉…昌平高~成蹊大。現新座ダイアモンドドックス主将兼外野手。
――球は走っているという感覚はありましたか。
大下さん
このシーズンは、試合で上から投げたのは2、3年ぶり、試合で投げたのも1年以上ぶりでした。だから、「走ってんじゃね?」くらいの気持ちしかなかったですね(笑)。正直わからなかったというか。初登板もブルペンでは凄く調子よかったですが、試合のマウンドではそこまでではなかったです。ただ、試合で130キロを超えたのはこの試合が初めてでしたね。
――そこから、大下さんの大学野球はスタートするわけですが、1年春に他に思い出に残る試合はありますか。三部・四部入替戦でも登板されていますが。
大下さん
三つ巴の入替戦でしたね。最後、亜大グラウンドで、芝浦工大戦で勝利して残留を決めた試合が印象深いですね。2‐5で負けていて、もう1点もやれない、5回表の一死満塁からの登板でした。4番の宍倉(穣、注19)さん、5番の篠遠(直紀、注20)さんを迎える場面。宍倉さんを確か三振に打ち取り、篠遠さんには3-2になった。その時に誰か足攣ったか何かで中断したんですよね。最悪じゃないですか。外れたら押し出しになる(笑)。再開の初球で見逃し三振を取ったのは今でも覚えています。その後チームが逆転して、7-5のスコアで残留が決定しました。
登板した場面は、先発した甲斐さんも山本(天喜、注21)さんも打たれて、状況としては「詰んで」ましたね(笑)。この入れ替え戦は神宮での3試合を含めて4試合投げましたね。
(注19)宍倉穣…中大横浜高。元芝浦工大内野手。
(注20)篠遠直紀…湘南学院高。元芝浦工大外野手。
(注21)山本天喜…北海高。元成蹊大投手。
――このシーズンは、シーズンを通して「通用するな」という気持ちはありましたか。
大下さん
ありましたね。ただ、1年生の時のフォームは毎試合違いました。サイドで投げる試合もありました。毎週試しながらやっている感じでした。
――それでこれだけ成績残しているのは凄いですね。
大下さん
手先が少し器用なので、投げれちゃいはするんですよね。良くも悪くもですが…。
――1年の春の東都三部の印象はどうでしたか。
大下さん
学習院大の櫻井(優樹、注22)さん、赤尾(光、注23)さん、若林(拓、注24)さんの3人はとても印象に残っています。特に櫻井さんは凄くいいピッチャーでしたね。あと上智大のエースの今川(和哉、注25)さんも印象深いですね。今川さんにはのらりくらりと低めに集められて、打たされて…という感じでしたね。
ただ全体的には、自分も意外と通用するな、とは思っていました。
あと、今の三部と当時の三部を比較すると、当時は今以上に「個人技」の色彩が強かったように思いますね。そのチームでは「誰が凄いのか」という感じで。その凄い人たち、中心メンバーが、試合で結果を出せるかどうかで勝敗が決まるというか。
(注22)櫻井優樹…豊多摩高。元学習院大投手。
(注23)赤尾光…桐蔭学園高。元学習院大外野手。
(注24)若林拓…新潟明訓高~学習院大。現JR新潟外野手。
(注25)今川和哉…時習館高。元上智大投手。
――今はどのチームも、もう少し組織的になっているように思いますが。
大下さん
それは思いますね。継投をきちんとやったりとか。昔の成蹊は「山本、甲斐、甲斐、甲斐、山本」という感じでしたから(笑)。俺らリリーフはベンチで何してるんという感じでしたが。
腸腰筋で脚を上げることを意識したんですよね
――1年の秋季リーグの思い出はありますか。
大下さん
初先発が秋でしたね。順天堂大2回戦でした。先発予定の甲斐さんが体調を崩されて、私に先発が回ってきました。結局その試合は雨で流れましたが、監督の花岡さんが「そのままいくぞ」とおっしゃって、順延した日に先発しました。球場は大田スタジアムでしたね。この試合は甲斐さんがレフトなんですよ。なんでかというと、チームがなかなか打てなくて、練習で甲斐さんがロングティーやってると一番飛ばしてまして。「レフト行くか!」となりました。ただこの試合は打撃で結果が残らなかったので、その後その起用はなかったですけど。甲斐さん、めちゃめちゃ飛ばすんですよね。
私のピッチングについては、変化球主体だったかな…と思います。思ったところに投げられれば打たれないなと。相手の順大は、大学野球入ってからはメンバー表交換で驚きましたね。メンバーが強いんですよ。渡邉(裕貴、注26)さんは三本松で甲子園に出ているし、小澤(拓海、注27)は習志野のあの小澤ですよね。飯高(皓大、注28)は郁文館の4番。
(注26)渡邉裕貴…三本松高~順天堂大。元愛媛マンダリンパイレーツ捕手。
(注27)小澤拓海…習志野高。現順天堂大内野手。
(注28)飯高皓大…郁文館高。現順天堂大捕手。
――この日は独立リーグに行った田畑(裕希、注29)さん、平野(仁志、注30)さんと投げ合っていますね。他に印象に残った試合はありますか。
大下さん
この時期は本当に頑張って投げていましたね。10月30日、上智大グラウンドの上智大戦の1回戦に投げているようですが、あまり覚えてないなぁ…。最後、タイブレークで打たれたのかな…?
あと、大正大戦で観た齋藤(康徳、注31)さんのピッチング観たんですが、とんでもなかったですね。1安打完封の準完全試合でした。中盤で板垣(学応、注32)がヒットで出て、「やっと出た!」となったんですが、牽制でアウトになって一瞬で帰ってきた。こういう人が上でやるんだなー、となりました。
(注29)田畑裕希…城東高~順天堂大。元福島レッドホープス投手。
(注30)平野仁志…愛工大名電高~順天堂大~富良野ブルーリッジ~大分B-リングス。現和歌山ウェイブス投手。
(注31)齋藤康徳…霞ヶ浦高~大正大~ロキテクノ富山。現全足利クラブ投手。
(注32)板垣学応…成蹊高~成蹊大。元成蹊大内野手。
――1年の冬から2年の春を迎えるまでに、何か変えたことはありますか。
大下さん
フォーム改造を真剣にやったのはこの時でしたね。今のフォームの原型ができています。少しコアな話になりますが、腸腰筋で脚を上げることを意識したんですよね。背が180センチないくらいなので、僕の身長でどう速いボールを投げようか、と考えていまして。となると、エネルギーを止めずに投げないといけない。それまでは、脚を上げて止まって(静止して)いたんですよ。ただ、そうではなくて、脚を上げた勢いをそのままつなげようと。腸腰筋から上げて、前に向かってこうと…。その成果は、球速という形で出ましたね。2年春の帝京平成大との入れ替え戦では137キロが出たので。1年の時は132キロがマックスでしたので。
1年の冬くらいからちゃんとウェイトトレーニングもし始めたんですよね。いろいろな練習もやってみて…というなかで、脚を上げていくフォームも板についてきました。
151球なので、球数は多すぎますが、楽しかったですね。そのなかで投球リズムやフォームもつかんだ感じがありました
――2年の春季リーグの思い出はありますか。
大下さん
試合は、ロングリリーフで使ってもらえる場面が増えましたね。5月15日、長生の森公園野球場での順大2回戦は印象深いですね。5回2/3を投げて敗戦投手でした。頭使って、配球を考えまくって、がむしゃらに腕を振っていました。リードしてロングリリーフはあまり経験がなかったので。9回、リードしていて、一死一塁からチェンジアップが高めにいって左バッターの菅沼(眞、注33)さんにライト線抜かれてスリーベースで同点。そのあと平山(新、注34)さんに犠牲フライを打たれてサヨナラ負けでした。頭のなかで映像として残っていますね。
4年間の通算で、私は三部で6敗くらいしているんですよね…。
入れ替え戦の帝京平成大戦も印象深いです。このシーズンから帝京平成大が東都に加入していました。成蹊大は、絶対に三部・四部入替戦に行ってはいけないシーズンで最下位になってしまいました。
帝京平成大は強かったですね。試合前のキャッチボールから「あぁ、強ぇ~」と思っていましたね。更田(篤稔、注35)さんのキャッチボールが凄くて見入ってましたね。すげぇ、めっちゃきれいじゃん、教科書通りじゃんと…。
2回戦は7イニング投げていますね。帝京平成大の試合の映像をよく観ていて、バッターの対策を本当に研究していました。対策を練りまくった結果、自責1で抑えることができましたね。アウトコースに集めていましたね。真ん中に入ると持っていかれますから。球速帯や軌道をずらしながら、ずらしながらという感じでしたね…。相手の打てないところ、苦手そうなところに投げていました。151球なので、球数は多すぎますが、楽しかったですね。そのなかで投球リズムやフォームもつかんだ感じがありました。SNSで自分のことを検索して、話題になっているのを知ったのもこの頃でした。
(注33)菅沼眞…安積高。元順天堂大内野手。
(注34)平山新…常磐大高。元順天堂大外野手。
(注35)更田篤稔…横浜高~帝京平成大。元バイタルネット投手。
「ちゃんとやれば150キロが出るかもしれない」と思いました
――2年の秋季リーグはいかがですか。
大下さん
四部のシーズンでしたがあまり投げてないですね。メンバーにも入れない時期があって。今は違いますが、当時はベンチ外メンバーは公式戦に帯同しなくてもよかったんですよね。メンバーに入っていない時期に、フォームコーディネーターの白川(峻也、注36)さんが東京で指導をされるということで、予約してセッションを受講しました。それが転機だったかな…。その日に142キロが出たんですよね。白川さんにはのちに、1月から2月に1度は指導してもらうようになりましたね。その指導もあって、3年時には145キロまで出るようになりました。
1試合だけ登板しましたね。9月23日、東京工業大グラウンドでの東京工業大戦でした。前日に白川さんの指導を受けていて、セッションの最後の方は全力で投げ込むんですよね。その時に初めて140キロがアベレージでバンバン出て、全身パンパンになってんですよね。「これはもう明日はゆっくり休んで次の練習に間に合わせなければ」と思っていたら、「明日ベンチに入れる?」と言われて(笑)。登板したら腕がパンパンすぎて何の抑えも効かず…。139キロくらいが左バッターのアウトハイにずっと抜け続けたんですよね。
四部優勝して、上智大との入替戦の2回戦は投げています。なぜか入替戦には縁があって、神宮で通算15イニングは投げていますね。この試合もロングリリーフでしたね。試合で140キロが初めて出たのがこの試合でしたね。この代の上智打線は苦手意識がありました。服部(幹広、注37)さん、馬淵(智成、注38)さん、大塚(勇輝、注39)さんは本当に抑えるイメージが湧かなかった。上智は正木(悠馬、注40)くんが投げていて本当に球が速かった。
(注36)白川峻也…東海大甲府高~鶴見大。現White Baseball Academy代表。
(注37)服部幹広…桐蔭学園高。元上智大内野手。
(注38)馬淵智成…明星高。元上智大捕手。
(注39)大塚勇輝…岐阜高。元上智大捕手。
(注40)正木悠馬…Redmond高。現上智大投手。
――晴れて三部への再昇格を果たしたわけですが、感慨はありましたか。
大下さん
甲斐さんを初めとした先輩方の最後の試合だったので、そちらの感慨の方が強かったですね。引退してしまうなと。私は浪人しているので、年齢として先輩の方々はこの世代が最後だったんですよね。
――エースの甲斐さんは、大下さんから見てどんな存在でしたか。
大下さん
甲斐さんはバケモノですよ(笑)。鉄腕です。投げすぎですよ本当に。八王子高時代から公式戦で投げていましたからね。人柄もめちゃめちゃいい人です。
――2年の冬から3年の春を迎えるにあたって、何か変えたことはありますか。
大下さん
ひたすら成蹊大のグラウンドでネットスローをして、フォームを模索していきました。白川さんのセッションに定期的に通い始めたのは3年になってからでしたね。この冬は、自分で三脚を立ててカメラでとって映像を見て、「ここをこうした方がいいんじゃないか」というのを試したりしていました。冬の期間は全体練習がないので、自由にグラウンドを使っていましたね。このときは熱量をもって野球できていたなと…。
…本日はここまで。
明日公開の後編では、大下さんの3年次以降の取り組みと戦い、そして野球への思いなどについて語られます!こうご期待!