成蹊大学硬式野球部・大下裕太郎投手インタビュー(後)

東都大学野球連盟の三部リーグで、独特の存在感を放つ成蹊大学硬式野球部。
その成蹊大学で、1年の時からリリーフ投手として腕を振り続けてきた、大下裕太郎投手。
三部・四部入替戦の神宮球場のマウンドに立つことも多く、その快速球と堂々たるマウンドさばきは東都三部・四部界隈で密かな注目を集めてきました。
今回はそんな大下投手にインタビューし、これまでの野球人生を振り返っていただきました。
本日は後編。大下さんの3年次以降の取り組みと、野球への思いなどが語られます!
(文中における人名は敬称略のことがあります)

PROFILE
おおしたゆうたろう◎2001年生まれ。八王子高~成蹊大。八王子高では投手としてプレーするが、公式戦登板はなかった。成蹊大では1年春よりリリーフとして登板。最速140キロ台中盤の速球と変化球を武器に、成蹊大のリリーフ陣を支えた。法学部法律学科4年。

ベクトルが自分を向いてしまったことですかね

――3年の春季リーグ戦の思い出を教えてください。

大下さん
あまり投げていないんですよね。寺山、高井(滉一郎、注41)の二枚看板や阿部も台頭してきていて。1試合だけ、順大1回戦で投げて敗戦投手でした。この頃からコントロールが怪しくなって…。
この3年の春に、セッションで145キロ出たんですよね。「ちゃんとやれば150キロが出るかもしれない」と思いました。
「次のステージでやりたい」と思っていたんですよね。例えば社会人の企業チームで続けたいと思うならば、同じ実力ならば企業チームはもともとつながりのあるチームの選手を取りますよね。かつ、枠が埋まる前に活躍して目立たないと、声はかからない。ですので、まず球速を出そうとしたのですが、なかなか歯車が合わなくなったのがこの時期でしたね…。

(注41)高井滉一郎…浜松西高。現成蹊大投手。

――「次のステージでやりたい」と思ったきっかけは何だったのでしょうか。

大下さん
帝京平成大との入替戦でのピッチングと、140キロを超えたことですかね。「やるなら目指してみよう」となりました。

――コントロールが悪くなった、あるいは「歯車が合わなくなった」という話がありましたが、原因はなんだと思いますか。

大下さん
ベクトルが自分に向いてしまったことですかね。セッションをうけて、「こういうフォームだ」とか「ここをもっと使わなきゃ」と知識として得ることはできましたが、それを試合でも意識してしまうようになったんですよね。相手に向かわなきゃいけないところを、ベクトルが自分に向いてしまっていた。そして、ストライクが入らない、入っても打たれる…という負のループでしたね。よくも悪くも、「145キロ」という数値を出せてしまったので、「もっと出さなきゃ、出さなきゃ」といううちに力み倒していたように思います。
結構、大学野球の投手の「リアル」な話をしているかもしれませんね。

――球速ってわかりやすいし、我々マニアもそれらの数字を見たがる面はあります。ただ、数字の「魔力」という面はありますよね。

大下さん
そうですね。ただ、その球速という数字がなかったら、今までのような経験もできていなかったとは思いますしね。

――3年夏から秋のシーズンにかけては何か取り組みは変えましたか。

大下さん
とりあえずストライクが入らないことには仕方ないので、フォームを固めようとしていました。投げるボールには自信があったので、後はゾーンに投げ込めば打たれないなと。オープン戦もそこそこ成績はよかったんですよね。

――3年の秋季リーグ戦の思い出を教えてください。

大下さん
初登板が東農大グラウンドでの東京農業大1回戦でした。上のレベルでやるなら強い相手にいいピッチングをしなきゃいけないな、と気合を入れていましたね。強いチームの試合にはスカウトも来るので。
感触としては、点差が開いていたのもありますが、通用したなという感じでしたね。真っすぐをジャストミートはされなかったです。自分が悪い時は、右腕が上がって来なくて、トップが合わないのですよね。この試合はトップが上がって、いいタイミングで投げられていました。自分の持っている力をポテンシャル通りに出せました。ただ、江川(岳、注42)くんに詰まりながら内野を越された時は「あぁ、こういう選手が上のレベルで続けるんだ」と思いましたね。
私が投げた試合の次の試合、成蹊大はリリーフした三上(丈瑠、注43)が凄かったですが、東農大は8回に長谷川(優也、注44)くん、9回に宮里(優吾、注45)さんが投げていてアベレージで150キロを超えていましたからね。誰が打てるねんと…(笑)。
最終戦の、ゼットエーボールパークの学習院大戦でも投げましたね。四球を出してしまいましたので、いいピッチングとは言えなかったですが、
登板はこの2試合だけでしたね。通年で3試合しか投げていないと思います。

(注42)江川岳…千葉黎明高。現東京農業大外野手。
(注43)三上丈瑠…西武学園文理高。現成蹊大投手。
(注44)長谷川優也…日本文理高。現東京農業大投手。
(注45)宮里優吾…岩倉高~東京農業大。現福岡ソフトバンクホークス投手。

――東農大との試合での大下さんのピッチングはよく覚えています。もっと投げている印象がありましたが、登板は3試合なのですね。少し答えづらいかもしれない質問ですが、登板できなかった理由はどのあたりにあるのでしょうか。

大下さん
制球力が1つの理由ですね。もう1つは、寺山、高井の両先発が踏ん張っていたのもありましたね。ブルペン組はなかなか出番がなくて。

――寺山、高井両投手への思いはありますか。

大下さん
2人ともいいピッチャーですよ。悔しい思いもありましたけど。

――3年の冬から4年の春季リーグにかけてはどうだったでしょうか。

大下さん
練習はそれまでと変わらず、ウェイトして、ボールいっぱい投げて、メディシンいっぱい投げて…他には、企業名は伏せますが、とある企業の練習にも参加させていただきました。とはいえ、就職活動もしていましたが。
私は先発をやりたいとずっと言っていましたが、結局公式戦では1年次の1試合だけなんですよね。
3年のシーズン後のオープン戦では先発をさせてもらって、それなりに結果も残していましたが、公式戦では中継ぎ待機だったので、モチベーションが下がった面は正直ありましたね。上で続けるためには結果を残さないといけない、しかし中継ぎだとどうしても出番が限られるわけですよね。
中継ぎで結果を残せばまた違ったのでしょうが、私はそこで落ちてしまいましたね…。
開幕戦の学習院大戦でボコボコに打たれたんですよね。チームも5-17で負けました。
大正大2回戦でも登板して、1アウトも取れずに降板しました。この2試合の登板で終わりました。矮人さんが思っているほど、私はリーグ戦で投げていないんですよ。

――あぁ、2試合だけでしたか…。私が観に行った試合では結構投げておられて印象深かったし、成蹊大の試合のインスタライブをつけても投げていたりされてて、私のなかでは凄く投げているんですよね。

大下さん
それならよかったです(笑)。この時は基本的にはブルペンで待機していましたが、ベンチに入らない試合も増えてきたんですよね。
最終的にチームは最下位になり、入替戦に回りました。最終カードの上智大戦ではやはり正木くんがエグかったですね。先発で村上(大樹、注46)が投げてから正木くんが投げたら、緩急の差が大きくて打てないですね。
四部優勝の一橋大との入替戦はベンチ入りできませんでした。この時期は肩が痛かったんですよね。サイドスローで練習していました。入替戦前に横浜球友クラブとオープン戦をしましたが、その試合もサイドスローで投げました。球速は130ちょいだったかな。公式戦でお披露目することはなかったですが…。
入替戦ではバックネット裏でビデオを撮影していました。

(注46)村上大樹…聖パウロ学園高。現上智大投手。

ずっと変化球で勝負していたし、思い入れもある。ずっと磨いてきた変化球で抑えられたのが嬉しかったですね

――4年の夏から、秋季リーグ戦を前にやったことはありますか。

大下さん
5月には就活を終えていたんですよね。自分のことに集中して、フォームやトレーニングの勉強はきちんとしていたので、後輩たちに残せることは残そうと思っていました。練習法だったり、考え方だったり。伝えられることを伝えたいなと。

――4年間で工夫した練習や、トレーニングはありましたか。

大下さん
ジャベリックスローとJバンドは割と早い時期からやっていたのではないかと思います。ウェイトトレーニングもそうですが。ジャベリックスローは、山本由伸投手の活躍で話題になって、早くから練習道具を買って実践していました。
新しいことを私がやっていたので、チームに広まっていきましたね。いいと思ったものを一緒にやったりしていました。みんな色んな練習をやるようになったんじゃないかなとは思いますね。

――4年の秋季リーグ戦の思い出を教えてください。

大下さん
春に2登板で、企業チームでプレーできる可能性もほぼなくなって、秋は最後に楽しもうという気分でした。1節目の帝京平成大2回戦で登板しましたが、これは印象深いですね。

――この試合はインスタライブで観ていました。本当に印象深いです。

大下さん
成蹊大のリレーは高井、大下、飯塚(洸太、注47)で、これは遠征の時の車のメンバーなんですよね。これは最高でした。この試合の帰りもそのメンバーで帰りました。勝ち試合で間を繋げましたし、この3人で勝てたことも嬉しかったですね。

(注47)飯塚洸太…県太田高。現成蹊大投手。

――この試合のインスタライブで、大下さんが二死満塁のピンチを絶った瞬間に「大下裕太郎、優勝しました」と実況の方がおっしゃっていたのが印象深いですね。

大下さん
あれは、元ネタがあるんですよ。日本ハムの齋藤(友貴哉、注48)投手が自分で作った無死満塁のピンチを自分で抑えて、優勝したかのように喜んだことがありましたが、それが元ネタです。実況やってる子が日本ハムファンで、この試合も自分で招いたピンチを自分で抑えて喜んでいたので、それを拾ってくれた感じですね。
その時抑えたバッターが、帝京平成大の伊東(洸佑、注49)くん。春季リーグ戦では3本塁打を放った選手で、リーグで1番いいバッターです。そのバッターを、自信を持っているスライダーで打ち取れました。キャッチャーの内藤(遼馬、注50)はストレートを要求してきていましたが、自信を持っている球で勝負したかったので、首を振ってスライダーで勝負しました。
私はもともと変化球ピッチャーで、速い真っすぐを投げられることに慣れていなかったんですよね。ずっと変化球で勝負していたし、思い入れもある。ずっと磨いてきた変化球で抑えられたのが嬉しかったですね。この試合はスライダー、チェンジアップがよく、中島(颯人、注51)くんをチェンジアップで抑えることができましたし。
春季リーグ戦までは、球速も含めた強い真っすぐがないといけないと思っていました。135キロとかだと、他がよくても上のレベルで続けるのは難しい。ただ、そのために、ベクトルが自分を向いてしまった。最後のこのシーズンは抑えることだけに集中できましたね。
ただ、勝ち点をかけた3回戦では私が打たれて敗戦投手になりました。山本(大介、注52)くんからは三振を取りましたが、代打の原(叶大、注53)くんに打たれて勝ち越されましたね。これで通算5~6敗目くらいだと思います。

(注48)齋藤友貴哉…山形中央高~桐蔭横浜大~Honda~阪神タイガース。現北海道日本ハムファイターズ投手。
(注49)伊東洸佑…静清高。現帝京平成大内野手。
(注50)内藤遼馬…川越東高。現成蹊大捕手。
(注51)中島颯人…履正社高。現帝京平成大外野手。
(注52)山本大介…高知中央高。現帝京平成大内野手。
(注53)原叶大…天理高。現帝京平成大内野手。

――それくらい、勝敗がつく重要な場面で投げられているということかと思います。登板数は確かにやや少ないかもしれないんですけど、大下さんは記憶に残る場面でよく投げているんですよね。
  他に記憶に残る試合はありましたか。

大下さん
次投げたのが、第4週の学習院大2回戦でした。先ほど言った2試合と合わせて、3試合しか投げていないと思います。先発の高井が追い付かれて、9回裏二死二塁から登板しました。山口(絢平、注54)くんが申告敬遠、安西(京十、注55)くんに変化が外れて四球。そして新井(圭悟、注56)くんにレフトにサヨナラタイムリーを打たれました。悔しいですね。4か月くらい経っていますが、まだ悔しいです。
回頭からとも思っていましたが、高井が凄く良かったんですよね。ただ志茂(日出斗、注57)くんに同点タイムリーを打たれてしまって…。
これが最終登板でした。

(注54)山口絢平…横浜高。現学習院大内野手。
(注55)安西京十…専大松戸高。現学習院大内野手。
(注56)新井圭悟…樹徳高。現学習院大内野手。
(注57)志茂日出斗…松本深志高。現学習院大捕手。

(東都三部・四部は)個人個人のレベルが本当に高くなりましたね

――4年間最後の、リーグ戦最終戦が終わった時は、どのような感情がありましたか。

大下さん
最終戦は、上智大グラウンドでの順大2回戦でしたね。試合が終わった瞬間は、「終わったー」という気持ちと、「勝手に自分を苦しめてやっていたのかな」という思いもありましたね。嬉しい、悔しいというより、苦しかった思い出が多かったので。解放されたというような思いもありましたね。
成蹊大は、選手のモチベーションは低くないのですが、上のレベルで続けようとしている選手はいないような環境でした。そのなかで、「自分でやるしかない」と思っていたわけですが、純粋に「もっと楽しんでやればよかったのかな」という思いもあり。そのなかで「終わったー」という感じでしたね。
私が一番泣いていましたね。試合終了時に泣いていたのは、私だけだったかもしれません。訳分からないくらい泣いていました。試合終了後の引退式では、4年生たちは感極まってはいましたが。
私は試合中からヤバかったですね。上田(峻大、注58)が7回裏にバックスクリーンにホームランを打ったんですよ。その時にもうヤバかったです。

(注58)上田峻大…安房高。現成蹊大外野手。

――もう一度伺うのですが、1年時の東都三部と、4年時の東都三部の違いをお教えいただけますか。

大下さん
先ほど話した、チームの組織化以外の話でいうならば、個人個人のレベルが本当に高くなりましたね。ピッチャーならば、わかりやすい指標で言えば球速は本当に上がりましたね。どのチームにも140キロを超えるピッチャーがいる。四部のチームにもいますよね。一橋大の泉川(詩人、注59)くん、齋藤(諒太郎、注60)くん、佐川(太一、注61)くん、東京科学大の笠井(遼河、注62)くん…。野球としてレベルが上がっていますよね。
やはり、帝京平成大の加入が大きいと思います。最初は、成蹊大の立場からすると「何してくれてんだ」という感じでしたが(笑)、東都全体を見れば底上げにつながっていると思いますね。現役の当時は、そんなことは言ってられませんでしたが(笑)。

(注59)泉川詩人…県千葉高。現一橋大投手。
(注60)齋藤諒太郎…盛岡一高。現一橋大投手。
(注61)佐川太一…芝高。現一橋大投手。
(注62)笠井遼河…桐朋高。現東京科学大投手。

――成蹊大の内部のレベルも上がった、ということでしょうか。

大下さん
上がったと思いますね。まず、取り組み方が大分変わりましたね。以前はサークル的な雰囲気もありましたが、今では練習中でもプレーを止めて、話し合うようなことも増えましたし。選手のレベル自体も上がっていますし。下級生の子もたくさん出ていますから、それもいいことだと思います。

成長できる時期に、できる限りのことはやれたかなと思います。自分が生きていくのは野球じゃなかったんだな、と思っています

――大下さんから見て、成蹊大学硬式野球部はどんな場所でしたか。

大下さん
「成長できる場」でしたね。こんなに野球のことばかり考えて過ごしたことはなかったので。本当に自分でメニューを考えて、自分で練習して、自分で外部の方のところにいって指導を受けて…自分でやることが多かったですね。そこで成長できましたね。
自主性を重んじる風土はよかったですね。「良い」と思えるところに突き進めたので。もし、強豪校に入っていたら、選手を途中で諦めていたかもしれませんから。成蹊大っていう、ノビノビと成長できる環境で4年間過ごせたのはよかったかなと思いますね。高校の時は、SNSで取り上げてもらって、こうやって取材を受けることも考えられなかったですから(笑)。

――同僚の4年生の投手陣に対して、思いはありますか。

大下さん
いい投手陣に成長できたんじゃないかなと思います。寺山、高井以外だと、伊藤(羽翼、注63)は4年春から登板し始めましたが、ちゃんと抑えていましたし、飯塚もクローザーとして試合を締めてくれた。(阿部)湖大朗もピッチングだけじゃなくて、主務も兼務していました。みんな熱心でした。キャッチボールはピッチャー同士でしますが、ボールを受けるたびに成長を実感できて、「負けていられないな」と思いました。ギスギスしない、いいライバル関係だったなと思いますね。
この6人をまとめてくれたのが、投手采配をしていた安川(柊生、注64)ですね。安川が投手陣を管理していました。いろいろ喧嘩したりもしましたが、よくまとめてくれました。

(注63)伊藤羽翼…鶴見高。現成蹊大投手。
(注64)安川柊生…豊多摩高。現成蹊大投手。

――同僚の4年生の野手陣に対してはどうでしょうか。

大下さん
試合に出てた子たちは、本当に真剣に野球に向き合っている人たちばかりでしたね。大内(成晃、注65)、吉澤、緒方(大空、注66)…みんなそうですが。

(注65)大内成晃…日大二高。現成蹊大内野手。
(注66)緒方大空…広尾高。現成蹊大内野手。

――卒業後は、硬式野球はされますか。

大下さん
今のところはやらない予定ですね。草野球くらいはしてもいいかなと思うのですが。本気でやりたくなったらクラブチームに入ったりするんですかね、わかりませんが…(笑)。

――野球人生のなかで、対戦して印象深かった選手はいますか。

大下さん
何人かいますね。
秋広(優人、注67)は中学の大会で対戦しました。見たことない速さのピッチャーライナーが来ましたね。「でっかー、打球はやー」ってなってました。彼は、中学2年生の時に、既に191センチあったみたいですね。
同じく中学の時ですが、野村(昇太郎、注68)も対戦したことがあります。多摩一本杉球場で綺麗なホームランを打たれました。
ピッチャーでいうと、高校時代に練習試合で谷(幸之助、注69)を見たときも衝撃的でしたね。ブルペンで彼と並んで投げる機会がありましたが、彼の球が速すぎて、私の投げる球が全部チェンジアップに見えたということがありました…(笑)。
大学では、上智の服部さん、馬淵さん、大塚さんは抑えるビジョンが湧きませんでした。苦手意識もあるんでしょうが、完全にダメでしたね。あとは私が1年生の時に、成蹊大の4年生だった左打者の米山(恭平、注70)さんも印象深いですね。4年間で対戦したなかで一番いいバッターだったと思います。米山さんは、亜大のグラウンドで逆方向にホームランを打っていますから。亜大のレフトは105メートルあるんですがね…。
あとは成蹊大の仲田。彼の打撃は本当に凄いです。凄すぎました。練習態度もストイックでしたし、キャッチャーとしても優秀でした。

(注67)秋広優人…二松学舎大付高。現読売ジャイアンツ内野手。
(注68)野村昇太郎…二松学舎大付高。元日大外野手。
(注69)谷幸之助…関東一高~国学大。現JR東日本投手。
(注70)米山恭平…蕨高~成蹊大。現熊谷ZEROベースボールクラブ外野手。

――これからの成蹊大学硬式野球部に期待することはありますか。

大下さん
ポテンシャルある子はたくさんいるので、目の前のことに頑張ってくれたら強いチームになると思いますね。

――成蹊大のなかで、来年以降特に期待している選手はいますか。

大下さん
新4年になるピッチャー3人ですね。柏木(良介、注71)、福井(悠朔、注72)、阪井(陸、注73)。この3人はみんなタイプが違いますが、期待しています。投手陣は皆投げられる力があると思いますので。

(注71)柏木良介…日大桜丘高。現成蹊大投手。
(注72)福井悠朔…春日部東高。現成蹊大投手。
(注73)阪井陸…成蹊高。現成蹊大投手。

――大下さんにとって「大学野球」はどんな場ですか。

大下さん
なんだろうな…。
「諦めがついた場」ですかね。不完全燃焼のなかで大学野球を始めて、ちゃんと練習して実力が上がって、上のレベルが見えるようになってきて。でももっと上手い人たちがたくさんいて、やったけど無理だなと思って。一旦野球をやめてもいいかなと思えたので。
成長できる時期に、できる限りのことはやれたかなと思います。自分が生きていくのは野球じゃなかったんだな、と思っています。

――葛藤や挫折もあったかと思いますが、野球は変わらず好きですか。

大下さん
野球は今でも好きです。

――野球のどういうところが好きですか。

大下さん
バックグラウンド関係なく、タイトルを争えるのが面白いですね。
甲子園ボーイや、強豪校で、「野球で生きてきた人間」と「そうじゃない人間」が対等に戦えるのが面白いと思います。特に東都三部だったら、野球で生きてきた人とそうじゃない人の差が大きいと思いますし。

――私も、東都三部の面白さはそこだと思います。多様な人たちが同居して、しかも「そうじゃない人」が「野球で生きてきた人」と接戦を演じていることも多い。

大下さん
割とファン目線の答えになってしまいましたが、それは大きいと思いますね。

――最後に、大下さんから何か一言ありましたらどうぞ。

大下さん
SNSで取り上げてくださった方々へ。とてもモチベーションになりましたし、高校時代まででは考えられないような経験をさせていただきましたし、ご縁を感じることができ、とても感謝しています。これからの成蹊の後輩たちの応援、東都三・四部の応援をよろしくお願いします。
(了)

いかがだったでしょうか。
ご本人に教えられて気付きましたが、大下さんの4年間の登板数は確かにあまり多いとは言えません。私のイメージでは、毎試合のように腕を振っていらっしゃったのですが。
ご本人にもお話しましたが、記憶に残る場面での登板が多かったです。1年春の三つ巴の入替戦、2年春の帝京平成、秋の上智との入替戦。3年秋の東農大戦での好投や、4年秋の帝京平成大戦の力投、そして学習院大戦での壮絶な幕切れなど、成蹊大の印象的な試合の多くに、大下さんがいました。
東都大学野球三部リーグ、四部リーグのレベルアップを、ここ4年間感じてきました。大下さんが投げる快速球は、そのレベルアップの象徴の1つだったように思います。今回、その裏にあった挑戦や葛藤についてご本人の口から伺うことができたのは、一大学野球ファンとしてとても幸せな経験でした。
また、試合展開によって出番が変わるリリーバーの冷静な目から、東都三部・四部のあり方の変遷についても語っていただいたように思います。この証言自体が、時代のうねりのなかの、貴重な資料となると考えます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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