鳥取大学硬式野球部・久保朝陽さんインタビュー(前)

中国地区大学野球二部リーグに所属する、鳥取大学硬式野球部。
2022年春に三部から二部昇格を果たし、以来5シーズン二部の座を守って来ました。
鳥取大の硬式野球部は、いわゆる「大人の監督」がおらず、学生から監督代行(注1)が出て指揮を行う。学生主導のチームです。
そんな環境下で、下級生の時からゲームを動かす立場を務めてきた久保朝陽さん。
4年間の硬式野球部の生活を終えた今、これまでの戦いを振り返っていただきました。
盛りだくさんのお話となりましたので、前後編でお届けします!
本日はまず前編。久保さんの高校時代と、大学での硬式野球部入部、そして試合で「采配」を振るうようになった2年生時~3年生時までのお話です。
(文中における人名は敬称略のことがあります)

(注1)監督代行…いわゆる「学生監督」。中国地区大学野球連盟では慣例的に「監督代行」と呼称する。

PROFILE
くぼあさひ◎2003年生まれ。筑紫高~鳥取大。筑紫高では2番手投手として、20年夏の福岡県独自大会で登板。鳥取大に進学・入部してからは外野手。2年秋からは主務を務める。試合の采配に2年秋から断続的に関わり、4年秋には監督代行に就く。3年春にはチームを二部リーグ3位に導いた。農学部生命環境農学科国際乾燥地域農学コース4年。

選手の主体性に任せる要素が強い高校でした

――高校までの球歴を教えてください。

久保さん
福岡県出身です。小学校低学年の時には、福岡県にあるベースボールスクールポルテで野球を始めました。小学校4年の時には那珂川マリナーズに入り、6年生までプレーしました。中学校では軟式のクラブチームの那珂川ベースボールクラブに入り、3年間プレーしました。その後県立の筑紫高校に進学し、3年間野球を続けました。

――高校野球での思い出を教えてください。

久保さん
筑紫高校はグラウンドがない高校でした。体育館の裏にバッティングのゲージとブルペンがあって、ブルペンのネットに向かって野手がティーを打ったりしていました。
私は、高校の時にはピッチャーをやっていました。3年生になったタイミングで、ピッチャーのリーダーを任せていただきました。筑紫高校は、顧問から練習メニューを出されて練習するというよりは、各ポジションのリーダーが練習メニューを考えて顧問に伝えるという形を取っていました。選手の主体性に任せる要素が強い高校でした。
自分たちの代には、身体が使うのが上手く、球も速いピッチャーが1人いて、私は先発で投げることはあまりありませんでした。後半控えから中継ぎで投げて…という感じでしたね。後輩もいるなかでポジションのリーダーをやりながらも、試合にはそんなに出られていないという乖離のなかで、悩んでいました。

――3年生の夏はどのような結果でしたか。

久保さん
私たちの代は2020年の夏で、新型コロナウイルスの流行の影響で夏の甲子園が存在しない代でした。福岡県では、当初代替大会がないと言われた後に再検討が行われ、代替大会が実施されました。私たちには、野球で推薦をもらうような選手はいなかったですし、「このまま野球をやってていいのか、受験勉強をするべきじゃないか」という気持ちもあり、チーム内は「これからどうすればいいんだろう」という空気が広がっていました。その後、全員が代替大会に参加することになりました。
大会の形式は、「リーグ戦を何試合かやった後に、トーナメントを組む」というものでした。ですので、1回戦をやっただけで姿を消すようなことがない構造になっていました。私は、監督から「いろんなところで投げるかもしれんから準備しといてくれ」と言われていました。
試合展開としては、印象的な試合ばかりでした。まずはリーグ戦が2試合。
最初は、小郡市野球場で、武蔵台高が相手でした。武蔵台はよく練習試合で当たっていて、勝敗でいえばトントン(五分五分)の相手。どっちも譲らず、ずっと取って取られてという展開でした。最後は6-6で行って、めちゃくちゃ雨が降る中、武蔵台に逆転サヨナラというものでした。その試合では、エースの子が点を取られた後に私が投げて、チームが追い付くという展開がありました。エースは投打に実力が高く、それまでは「自分が努力したって…」という気持ちも、正直なくはなかったのです。ただ、3年間でこの試合だけは、自分がエースの後で抑えて、チームに流れを呼び込めた試合だったように思います。3年間で一番「気張った」というか、「自分がやらないとダメなんだ」という自覚を持てた試合でしたね。
次は福岡農高のグラウンドで沖学園高との試合。先発を任されました。3年間で数えるほどしか先発していなかったので、当日はすごくアガってしまいストライクが入らず…結局1-7で負けました。自分自身に重い役割を持たされるという経験が少なく、最後の最後で一気にその反動が来て、プレッシャーにやられましたね。
そのあとはトーナメントになりました。福翔高が相手でした。その試合も投げました。その試合は手に汗握る試合で、5‐4で勝った試合でした。沖学園との試合で自分がやらかしたこともあり気合が入っており、救援で投げて投球内容も悪くなかったですね。
最後は春日高との試合。当時の春日高はかなり強く、春は九州大会に行くのではないかと思われていました。FITスタジアムでの試合でしたね。チーム全体が福翔戦で燃え尽きた感があり、0‐10の5回コールドで負けました。春日戦には負けましたが、誰も泣いていなかったように思います。福翔戦でやり切った感があったからでしょうね。

――高校時代はどのような投手でしたか。

久保さん
背が高く、高校の時点で180センチあったのでオーバースローでした。いかんせん球速が出ず、途中から球速を出すのを諦めました。真っすぐとカットボール、シンカー気味のツーシームを配して、打たれる前提でどう点を取られないかを考えていました。ゾーンに投げるだけではヒットになるので、コースにもこだわりながら、変化球とまっすぐを半々くらいで投げていましたね。後は野手の人にお願いするという感じで(笑)。

――学校の同級生ないし、久保さんに近い同年代の方は、大学で野球を続けた方は多かったのですか。

久保さん
高校の同級生には、大学野球を4年間全うした選手はいなかったように思います。
中学の同年代には、同じリーグのなかの久留米のチームに安徳(駿、注2)がいました。また、同じ那珂川ベースボールクラブのキャッチャーにして主将だったのが坂本(達也、注3)。久留米工業大で、九州地区大学野球の北部九州ブロック大会で、最後の秋に敢闘賞を受賞した浅川(大稀、注4)も同じチームでしたね。

(注2)安徳駿…久留米商高。現富士大投手。2024年ドラフト会議で、福岡ソフトバンクホークスに3位指名をうけた。ポジションは投手。
(注3)坂本達也…博多工高。現富士大捕手。2024年ドラフト会議で、読売ジャイアンツに育成1位指名をうけた。ポジションは捕手。
(注4)浅川大稀…博多工高。現久留米工業大投手。

「どうやらこの子たち、凄いところから来てるんじゃないか」

――鳥取大学に進学された理由を教えていただけますか。

久保さん
高校の勉強で化学が苦手だったんですよね。どれだけ勉強してもなかなか出来ず…。ただそのなかでも、どうにかこうにか国立大学に行きたいと思っていて、化学を使わずに理系の国立大学に行けるところがないか、と考えていたんですよね。
元々、大学では農業の研究をしたいと思っていました。色々調べていたら、鳥取大でスマート農業の研究をされている方がいらっしゃり、興味がありました。鳥大は推薦入試を使えば、理系科目は生物か化学か物理のどれか1つでよいというという形で、これならば受験しやすいと考えました。最終的には、共通テストを併用する推薦入試で合格しました。

――入学前から、大学で野球を続けようと思っていたのですか。

久保さん
先ほども申し上げたように、コロナウイルスの関係で高3夏に甲子園がなかったんですよね。その不完全燃焼な気持ちを大学野球にぶつけたい、ということはありました。
また、これはやや打算的な気持ちもあったのですが、私立大の野球部よりかは、国立大の野球部ならば試合にすぐ出られるかな…という考えもありましたね。
高校3年間は、出場できた試合があまり多くなくて。高みを目指してやりたいというよりかは、とにかく「試合に出たい」という気持ちが強かったですね。

――入学してから、練習に参加するまでの状況を教えてください。

久保さん
入学当時(2021年)はコロナ禍の真っ最中でした。なかなか新歓などもなく、閑散とした大学に新入生だけが通学しているような状況でした。ですので、部活動についても自分からSNS上で情報収集する必要がありましたね。皆がどれくらいから部活に通いだすのかもわからず…。
硬式野球部の練習に通いだしたのは4月の半ばでしたかね。3月の時点で入部を表明していて、4月1日から練習に参加していた新入生は春のリーグ戦に帯同していましたが、自分は春リーグについては帯同しませんでした。登録はされていたと思いますが。コロナ禍の前から、鳥大の場合は、春リーグと新歓の時期が被りますので、新入生は春リーグに帯同しないことが多いです。

――1年生の時の思い出について教えてください。

久保さん
自分の世代が入る前の鳥大は、私が入学前に想像していたのと同じくらい緩かったです。中国地区大学野球リーグの三部の最下位で、大学生がやりたいようにやっている感じで。ただ、自分としては専用グラウンド(鳥取大学野球場)があるだけ、高校よりは環境はいいなと思いました。
ただ、新入生の周りの子たちは、全国の色々な高校から来ていて、環境が悪くなったと感じる者もいたようです。グラウンドがあまりよくない、とか…。
新入生の子たちの顔を覚えて、話を聞いてみると、「どうやらこの子たち、凄いところから来てるんじゃないか」と思うようになりました。「野﨑(直哉、注5)の出身校の浜田高って、福岡ソフトバンクホークスの和田毅投手の出身校じゃないか?」とか、川西緑台高でエースやってた子がいる(鎌田恒士朗、注6)、キャッチャーの子は掛川西高だと(鈴木尚斗、注7)知り、驚きました。凄く強豪校や有力校から来ているなと。
皆の話によると、高3の4月くらいから練習がなく、最後の大会も代替大会で甲子園をかけたヒリヒリ感はなく、不完全燃焼を引きずって入部した人が多かったようでした。それもあってなのか、当時の2~4年生よりも、自分たちの代が凄く人数が多かったんですよね。
強豪校や有力校から来ている子は、当時の練習を変えたいと思っている人が多く、先輩に対しても練習を変えるように提案をしていました。春季リーグは弱かったけど、秋季リーグはチームの成績は期待できるんじゃないかなと思っていました。実際そうなりましたしね。

自分自身の話としては、「試合に出たいな」と思って大学野球をやろうとしていたわけですが、ピッチャーとしては鎌田が138キロ、野﨑が130キロ中盤投げる好投手で、能力が高い。ええ!となりました。このメンツでピッチャーでは出られないと思いました。経験のある外野手をするかと思い、外野手になりました。
あと、新人戦が11月頃にありましたね。凄く寒い中で徳山大のグラウンドでやりました。その新人戦では、一部にいる広島文化学園大とやりました。その試合では先制して、結局は逆転されたのですが、2‐4という接戦を演じました。9回裏も2アウト満塁まで攻め込みました。秋リーグは三部優勝したあと入れ替え戦で島根大に負けて二部昇格はならず、当時は三部所属だったのですが、「相手が同期ならばここまでできるんだな」と自信になった試合でしたね。
捕手の鈴木とは家が近く、よく飲んだりもしたのですが、当時から「これだけ力があるんだから、4年生がいなくなって3年生以下ばかりになったら自分たちが勝てるチームを作らないといけないよね」と話していましたね。日夜「チームを強くするためにどうしたらいいか」と話していました。

(注5)野﨑直哉…浜田高。現鳥取大投手。
(注6)鎌田恒士朗…川西緑台高。現鳥取大投手。
(注7)鈴木尚斗…掛川西高。現鳥取大捕手。

役職がないのに采配だけ振るえと。今考えれば、なんちゅう話やねんと思います

――2年生の時の思い出をお話いただけますか。まずは、春季リーグから。

久保さん
春季リーグの時点では、鳥大の実力だったら、三部優勝はできると思っていました。ならば、三部から二部にどう上がるかということが目下のテーマとなりました。二部昇格を意識して練習していましたね。果たして、春季リーグでは三部優勝し、二部三部入替戦で山口大を破って二部昇格を果たしました。
山口大との入れ替え戦は印象深いですね。こちらとしては、鎌田と野﨑を使って勝つしかないと思っていたのですが、実際そうなりました。土曜はダブルヘッダーで、1勝1敗となったら日曜に1試合やって3試合やるという日程でした。球場は萩高校のグラウンドでしたね。
土曜日に連勝して昇格しました。出ているメンバーは2試合ともほぼ同じでしたね。1個上の先輩の本多(翔、注8)さんがセンターで出ていたのですが、勝てば昇格となる2戦目、リードした後半のピンチで、足をつって動けなくなったんですよね。私は正直「出番はないかな」と思っていたのですが、そこからキャッチボールをして、シフト変更でレフトとして出場しました。守備機会も1回ありましたね。
当時のメンバーは、鎌田と野﨑が投げていて、鈴木がキャッチャー、新塘(怜士、注9)や河合(佑真、注10)が出ていて、私の同期がいろいろなところで試合に出ていました。私は試合に出ていませんでしたが、「2年生だから出られないのではなく、実力不足だから出られない」と考えていました。そのようななかで、「うわっ、出るんだ」と思いながら守備をして、ヒットも打つことができました。
私と交代した本多さんは、米子東高の出身で、肩も強いし足も速いしバッティングセンスもあり、退くことはないと思っていました。そのような先輩と交代して、結果的にチームにプラスに働くことができたのが、自分のなかでは嬉しかったですね。
チームが昇格して嬉しかったと同時に、プレイヤーとしてどうにかこうにか戦力になりたいと思っているなかで、初めて「戦力になれた」と実感できたのは嬉しかったですね。同期がたくさん出ているなかで、むずがゆい思いはありましたので。

(注8)本多翔…米子東高。元鳥取大外野手。
(注9)新塘怜士…岡山城東高。現鳥取大捕手、元監督代行。
(注10)河合佑真…半田東高。現鳥取大投手、外野手。

――2年生の秋季リーグの話をお願いいたします。

久保さん
春季リーグの段階では、1個上の3年生が試合の指揮を執っていたのですが、秋季リーグからは自分たちの代が一番多く、秋からは2年生が指揮を任されることになりました。
監督代行の登録は新塘、キャプテンは鈴木でした。練習も含めて、その方がチームが上手く回るだろうと考えてそのようにしました。ただ実際には、その2人とも、試合に出ることが多かったんですよね。新塘は内野手、鈴木はキャッチャーとして。となると、ベンチで落ち着いて采配を振るえる人がいない。そこで、私は何の役職もなかったのですが、「ベンチからサインを出してくれ」という話になりました。役職がないのに采配だけ振るえと。今考えれば、なんちゅう話やねんと思います(笑)。

――私は22年の秋季リーグで鳥大の試合を観戦したのですが、当時2年生の新塘さんが監督代行登録で、非常にびっくりした覚えがあります。実質的には久保さんが指揮されていたと今聞いて、さらに驚きました。そのようなチームは他に観たことがなかったので。実質的な「監督」としての思い出をもう少し詳しくお伺いできますか。

久保さん
当時は二部に上がってすぐでした。他のチームには、国立大のピッチャーでいうと島根大の澤田(明良、注11)、岡山大の阿重田(伶、注12)といった、どうやっても個人のマンパワーでは勝てないようなスケールの選手がいました。そのなかで、どうにかしてチームで勝つためには、チームとしての武器を作るしかないという話になりました。ウチがチーム全体として極められることが何かと考えたら「バントじゃね」という話になり、バントを皆で練習するようになりました。打てる選手が出るのが一番いいけど、それ以上にチームとしてのプレーができる方がいいと思い、(スタメンで)出る9人は、バントは全員やって欲しいと。
ただ、私立大を相手にしたときに、「そもそもバントをする展開にならないじゃないか」という話にもなりました。中盤まで競った展開でいけばいいのですが、そうなるほうがまれだなと。
シーズンが始まる前の段階では、私と鈴木は、「上を目指すというよりは、現実的に岡大と島大に勝って二部に残留することを目指した方がいいな」という話をしていました。福山大の入川(翔、注13)さんや岡山商科大の福島(歩、注14)から点をとることよりは、澤田や阿重田からどう点を取るかと考えたほうがいいなと。
残留を決める上においては、広島国際大と試合をして、1試合目の11回表に鈴木の2点タイムリーで点を取って、2‐0で勝ったことが大きかった(注15)。「俺らも私立大に勝てるんだ」と思いましたね。鎌田が11回完封でした。
残留を決めたので、「やって来たことは間違いじゃなかったな」と思うことができました。
連勝をした最終節の島大2回戦も印象深いですね。2‐0でリードしていて、野﨑が投げていた。「野﨑が投げているなら安心だ」と思っていたら、6、7、8回に1点ずつ取られて逆転された。「どうしよう」と思っていたら、8回裏に1年生の谷口(慶、注16)が逆転2ランを打ちました。
結果として秋季リーグは5位で終わりましたが、チームとしては私立大に対してもスクイズやバントや、マンパワーではない総合力で戦うことができました。最後は新しく入って来た1年生が結果を残した。「次の春季リーグはやれるんじゃないか」という気持ちがありましたね。
私個人としては、リーグ戦前から、鈴木から「お前はあまり試合に出れないと思う」と言われていました。外野手として、谷口が入って来ましたし、「実力が変わらないならば谷口を使った方がいい」という話もわかる。2年秋は試合に出るというよりは、どうにかこうにかチームを勝たすということばかり考えていましたね。
このリーグ戦で広島国際大に勝つことができ、島大には連勝できた。この秋リーグがあったからこそ、のちに4年秋は「監督(代行)をやろう」と思うことができましたね。
中高の野球って、選手として使われる側しかないじゃないですか。納得するかしてないかということは別として、監督がそう言っているからそれが正義だ、という環境がある。大学野球では、――言い方は悪いかもしれませんが――「人を「使う」側」を経験できることに気づいてしまいましたね。そのなかで、他の大学に勝つことができて、選手で結果を残すとはまた少し違う「気持ちよさ」があるなと思いました。

(注11)澤田明良…基町高~島根大。現MJG島根投手。
(注12)阿重田伶…下松高。現岡山大投手。
(注13)入川翔…松山商高~福山大。元YBSホールディングス投手。
(注14)福島歩…岡山東商高。現岡山商科大投手。
(注15)当時の中国地区大学野球二部リーグは、現在のように勝ち点制ではなく、2連戦総当たりの勝率制のリーグ戦であった。
(注16)谷口慶…加古川北高。現鳥取大外野手。

――選手起用や采配は、全て久保さんが考えられていたのですか。

久保さん
自分自身で「こう思う」というところと、主将の鈴木、監督代行登録の新塘がどう思っているかということをすり合わせながら、その都度その都度相談して、「3人の総意としてこうだよね」ということで采配をしていました。私も意見を出す1人という立ち位置でしたね。とはいえ、例えば新塘が塁上にいて、鈴木が打席にいるような場面では、判断は私に一任されていました。2人が守備についている時もそうでした。継投の判断を自分1人で行うこともありましたね。
自分個人でいえば、2年秋から主務という役職ではありましたが、試合に参画する上では役職があるわけではない。他の2人は役職がある。ただ、申し上げたように1人で判断を行うことがあります。役職がない人間が、そこまでのことを背負う状況に対して、不満がないわけではなかったです。チームの構想として、自分は選手としては戦力としてカウントされていないならば、「自分が監督代行という立場に立った方がよかったのではないか?」という気持ちもありました。
それでも、采配に携わっていると、負けたら「なんとかして勝たせられなかっただろうか」などと考えることがあります。それは、一選手にはない苦労です。さっきの話と矛盾するかもしれませんが、私は役職がなく、一選手として「使われる」側にいることもできたと思うのに、なんでここまでの苦労をしなくてはならないのだろう…ということは正直ありました。選手としての出番はないのに、普通の練習は練習として「選手として」やっている。周りは「どうやったら試合に出られるかな」と考えてやっている。私はそれに加えて「この選手を使うならこうだよな」「この選手はここが良くなっているな」といったことまで気にしないといけない。自分の想定できるキャパシティを超えた状態で野球をやっていたような気もしています。
ただ、その役割でいた方がチームとしていいならば、その話はわからなくはない。とても複雑な気持ちでしたね。

――当時2年生となると、久保さんは早生まれなので19歳ですか。19歳でそこまでいろんなことを抱えられている方は、他の大学野球のチームにはあまりいなかったのではないかと思いますが。

久保さん
そう思うと、やった価値はあったのかもしれませんね(笑)。

――スターティングメンバーはどう決めていたのですか。

久保さん
当時は、高校生や、他の大学ととにかく試合をたくさんしました。京都大ともオープン戦しましたね。その結果を数字で全部洗ってスタメンを決めていました。二遊間については守備もあるので、自分たちがノックを見ながら考えていました。私と、鈴木と新塘と3人で話しながら、スタメンを練っていましたね。

今思い返すと、野球でそこまで落ち込んだのはその時が初だったかもしれないですね

――3年生の時の思い出をお話いただけますか。春季リーグから。

久保さん
3年の春は全てにおいてバタバタしていましたね。主務でしたので、連盟に出す書類を作って、鈴木とチームの練習について話して、次の試合もどうしよう…と考えなくてはならない。チームの全部のことに関わっていたのが3年春でしたね。変わらず、采配にも参画していました。
リーグ戦が始まる前に、「岡大に2勝したくね?」という話をしていました。前回のリーグ戦ではコテンパンにやられていましたので。阿重田、捕手と内野を兼任する角原(圭祐、注17)さん、捕手の赤熊(赳瑠、注18)さんがいる岡大になんとか勝ちたいなと。
当時は、野﨑が投げる時は、守備の関係で私が外野手で出たりしていました。プレイヤーとしても出場機会がありましたね。
相変わらず鎌田と野﨑が投げていました。キャッチャーは鈴木と新塘が半々。この時から野﨑と新塘を組ませていましたね。
チームとしてやれることはあまり変わらず、とにかくバントをして得点を模索するのと、鎌田と野﨑の投球をメインに守備を締める。守り勝つ野球をするしかないというチームでしたので。
3年春は3位でした。島大と岡大に2勝し、島根県立大には1勝1敗でした。当時の島根県立大には、内藤(有亮、注19)さん、實藤(峻介、注20)さんと、社会人で継続された選手も2人いましたね。實藤さんは凄かったですね。ショートとしてもピッチャーとしてもレベルが高い。別のシーズンでしたが、野﨑のツーシームを逆方向にホームランしていましたから。
この春季リーグは、前年秋から伸ばせることをしっかり伸ばそうとしていた、冬の成果はどうなっているかな、というリーグ戦でした。結果として岡大と島大には勝てた。ただ、「自分たちが今やっている練習ではここが頭打ちなのかな」と思いました。鈴木とも話していましたが、身体を凄く大きくするとか、常駐するトレーナーをつけて食トレをして、体重管理までやっていかないと、私立大に2勝するチームを作るのは難しいんじゃないかと思っていました。どうにもこうにも、今のやっている環境や練習内容ではとどかない部分が、福山大や岡山商科大、広島国際大や至誠館大に対してはあるのかなと思っていました。
140キロバンバン投げられるとか、スライダーやフォークのキレが物凄いとか、そういうのを打つには、普段からそういう球を観ていないといけません。現状、そういうマシーンもなく、そういう球を投げるピッチャーもいない。そのなかではやれることはやった…とは思うリーグでした。

(注17)角原圭祐…広高。元岡山大捕手。
(注18)赤熊赳瑠…岡山一宮高。元岡山大捕手。
(注19)内藤有亮…浜田高~島根県立大。現SUNホールディングスWEST捕手。
(注20)實藤峻介…三木北高~島根県立大。現SUNホールディングスEAST内野手。

――春季リーグの「会心の試合」はありましたか。

久保さん
岡大戦ですね。第1週でした。1回戦ですが、初回に1点先制されたんですよね。ただ中盤に追いついた。チームとしては、先制されるとなかなか厳しいという課題がありました。打っていこうというチーム作りをしておらず、ゼロで行ってスクイズ2回で勝つようなチーム作りをしていたので。追いついてからも先発の鎌田はずっと抑えていた。そしてタイブレーク10回表を鎌田が抑えて、10回裏に相手投手の暴投でサヨナラ勝ちしました。
2回戦の野﨑が先発し、この試合も先制されたのですが前半で追いつきました。また後半はどちらもゼロでしたが、9回表に谷口がホームランを打って勝ち越して勝った。この週は岡山県野球場でしたが、左打者の谷口がライトスタンドの奥のパネルに当てました。これは冗談なのですが、岡山県野球場のライト線ギリギリの、スタンドの奥のパネルは少し色が変わっています。「あそこのパネルの色は谷口が当てたから変わったんだよ」という話を後輩にしていました(笑)。

――では、秋季リーグの思い出をお願いします。

久保さん
このシーズンも監督代行が新塘、主将が鈴木で、私が采配を振るっていました。チームとしてはかなりつまずきましたね。よりいい結果を求めて、なんとか優勝に絡みたいということで始まったリーグ戦だったのですが…。
鎌田と野﨑がもう長く投げていて、対応されてくるし慣れられてくるし…という感じになりました。ただ、鎌田と野﨑が投げなくても勝てるようなチーム作りはしていなかったので、――もしかしたら本人たちも痛いところなどあったかもしれないですが――投げてもらわざるを得ない。そこは本当に申し訳なかったですね。
自分個人としては、最初の島大戦が大きかったですね。初回に無死一塁だったのですが、この段階では、バントをするチームっていうことは他のチームもわかっていて、ファーストやサードが凄くチャージをかけてきていました。「完全にバントはバレているが、相手投手は澤田であまり点は取れない」と思って、私はそこでバスターのサインを出しました。打者は新塘で、彼ならば空振りはしないだろうと思いました。作戦の意図まで汲んでくれるだろうと。ただ、それがゲッツーになり、流れを失ってしまいました。その後はなかなか点を取れる展開が来ず、中盤以降5点を取られて負けました。結局そのカードは連敗して。
今4年の秋を終えた状態で振り返ると、「リーグ戦の序盤から流れをおかしくするようなことをしてはいけなかったんだよな」と思います。当時は自分としても、なんとかチームを勝たせる必要があると思っていましたが、それ以降は「自分で采配を振るっているのに自分に自信を持てていない」状態でしたね。
島大戦の週は松江市営球場で試合があったのですが、帰ってくる最中にご飯が喉を通らなかったですね。先輩の米川(佳祐、注21)さんの車で帰ってきて、米川さんと河合、私がいて、湖山街道にある王将でご飯を食べて帰るぞとなったのですが、私は食べられなかったです…。「自分、お腹すいてないです」という感じで。本当に落ち込みました。
今思い返すと、野球でそこまで落ち込んだのはその時が初だったかもしれないですね。中学や高校の時は、自分が責任のある場面で試合に出ることがあまりなかったので。自分のせいで負けたな、と凄く落ち込んだのはその時が初だったというか。
このシーズンは5位でしたね。岡大と島根県立大に1勝1敗で2勝し、なんとか5位になって残留しました。

(注21)米川佳祐…豊田南高。元鳥取大投手。

…本日の前編はここまで。
明日の後編では、久保さんの4年時の戦い、そして鳥大野球部や久保さんご自身のこれからについてのお話が語られます!こうご期待!

いいなと思ったら応援しよう!