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川口ゴールデンドリームス・山下貴史投手インタビュー(前)
今年、創部15年目で全日本クラブ野球選手権本選出場を果たし、全国ベスト8という戦績を残した川口ゴールデンドリームス。
先日は、豊山裕憙キャプテンにチームの歴史と、ご自身の野球人生について語っていただきました。
もっと、「川口ゴールデンドリームス」について知りたくなった私は、クラブ選手権出場に大きな貢献をされた3人の選手に、ご自身の野球人生と、川口ゴールデンドリームスについてのお話などを伺いました。
まずは第一弾として、リリーフエースの山下貴史投手へのインタビューをお届けします!
例によって大変お話が盛り上がりましたので、前後編でお届けいたします。
まずは今日は前編。山下投手の生い立ち~立命大時代のお話から、川口ゴールデンドリームスに入部するまでのお話です。
(文中における人名は敬称略のことがあります)
PROFILE
やましたたかし◎1996年生まれ。時習館高〜立命大。立命大では4年秋にリーグ戦登板。2020年に川口ゴールデンドリームスに加入し現在5年目。先発、救援と役目を問わず主力投手として登板を重ねている。
(本稿の取材にあたり、ぶるっく(X(旧Twitter)ID: @buru_photo)さんに多大なご協力をいただきました。ありがとうございます!)
――高校までの野球歴を教えてください。
山下さん
私の家族は7人兄弟で、私は6番目でした。兄が2人いて、幼稚園の時から兄の野球について行っていました。小学校に入ると、硬式野球チームの豊橋リトルリーグで野球を始めました。その後、4年になったら兄のいる新城ベアーズの小等部に移りました。中学校でも新城ベアーズの中等部で続けましたね。
高校は、豊橋地区の進学校である時習館高校に進学して野球を続けました。
――高校時代はどんな選手でしたか。
山下さん
高校にはピッチャーとして入りましたが、高校では主にセンターをしました。最初は外野をやりました。1年秋は背番号8。2年の春と夏はピッチャーとしてベンチ入りしました。しかし2年の夏の登板で大炎上してしまい…それ以降公式戦では投げなくなりました。
3年の1年間は外野手で、センターをしていました。副主将を務めました。結構言うときは言う、口で言うタイプの副キャプテンだったと思います。
とにかく練習しました。打てなかったらとにかく練習。練習量だけは他の人に負けたくないと。1年生の時、自転車でこけて左手を骨折した時期がありましたが、「1週間で150キロ走る」と決めて、ずっと走っているとか。「ポール間40本絶対走る」と決めて走るとか。今思うと非効率的な面がありますが、ひたすら練習するタイプでした。
ただ、練習することで自分をごまかしていた面もあったように思います。副主将としても責任があって、しんどいこともありました。練習している姿を他の皆にも見せるためにも、「とにかく練習しないと…」と思っていました。最後の夏の大会が終わった時は「やっと終わった…」という感じでした。
――高校野球引退後、どのように進路を決めましたか。
山下さん
広島東洋カープのファンであり、広島大への進学を目指しました。指導者を目指していたのもあり、教育学部の体育学専攻に行きたかったのです。ただ、現役、浪人ともに合格できず、滑り止めで受験していた立命大に進学しました。
究極の「負けず嫌い」なんです
――立命大では硬式野球部に入部されますが、その経緯を教えてください。
山下さん
硬式野球部の練習を見て、周りと自分とのレベルの差に絶望しました。エグすぎました。当時は東(克樹、注1)さんなどかいました。
自分は浪人中あまり練習できなかったこともあり、ストレートの最速は120キロも出ず。
立命大の後藤(昇、注2)監督には、「君は準硬式や軟式なら活躍できる」と言われて、ムッと来ました。そこで「やめます」とは言えない性格なので、硬式野球部でプレーをすることにしました。最初、夏くらいまでは迷っていました。逆に、後藤監督にそう言われていなければ迷っていたと思います。
(注1)東克樹…1995年生。愛工大名電高~立命大。現横浜DeNAベイスターズ投手。
(注2)後藤昇…1960年生。天理高~立命大~日本新薬。元立命大監督。
――硬式野球部に入ってからは、ネット上の取材記事や、ご自身で発信されているnoteの記事にもあるように、大変な努力を積み重ねておられます。そのモチベーションはなんだったのでしょうか。
山下さん
究極の「負けず嫌い」なんです。諦めの悪さを持っています。例えば、打たれたらしょげるのではなく、もっと練習する気持ちを持っています。へこむのは次の日まで。打たれた時も次の登板までに絶対に映像は見ます。
また、親に恩返ししたい気持ちがありました。浪人して国立大に落ちて、私立の理系に行くのは親不孝者だな…と思っていたので。
恩返しするには、自分が幸せなところを見せること。そうなると、投げている姿を見せる以外にない。「野球やって楽しかった、だけどメンバー外だった」は違うなと思いました。
――ピッチャーというポジションへのこだわりには、どのような理由がありますか。
山下さん
自分がチームや組織に対する影響力を大きく及ぼしたいという気持ちがありますね。ピッチャーが点を取られなければ負けることはないので。野手は3安打しても負けることがあります。それは納得できない気がする。
――大学時代で一番印象に残っていることはありますか。
山下さん
1つに絞れないので、いくらか挙げようと思います。
1回生の冬にコーチに呼び出されて、マネージャーをやらないかと言われた時は悔しくて、皆の前では悔しい顔を見せませんでしたが、一人暮らしの家に帰るバイクに乗りながら泣いてましたね。
他には、4回生秋のリーグ戦の京大戦で登板したときのスタンドの景色ですね。4回生の仲間が応援していた。当時から三振を取ったら吠えていたのですが、私が三振を取って吠えた時、スタンドとベンチの仲間も吠えていました。4回生の秋は、みんなが互いのそれまでの努力を知っているから、声援が大きいなと。
また、同級生に秋川(優史、注3)という選手がいて、学部も一緒だったのですが、トレーニングなども一緒にやっていました。
3回生の冬に「俺がメンバー入ったら奇跡やなあ」と、秋川に言っていたのですが、秋川がその言葉を覚えていました。4回生秋のリーグ戦が終わったあと、秋川が「奇跡起こったなあ」と言ってくれて。そのあとすぐに、「お前の取り組みを見ていたら奇跡とは思わない」と言ってくれました。
最初のチャレンジリーグの関学大戦で初登板したこともよく覚えています。立命のユニフォームで公式戦投げられたなと。チャレリで登板を果たせて、1つ恩返しができたなと。
4回生秋のリーグ戦の、自分の誕生日にあったオープン戦も印象深いですね。リーグ戦で、関大戦で勝ち点を落とした後の大阪体育大戦でした。この時は、後輩の高井(元太、注5)と入れ替わりでBチームにいたのですが、めちゃくちゃ集中して三者連続三振を奪いました。大学時代で一番良かったと思います。メンバーを奪い返すぞ!という気持ちで。
最後の卒部式も印象深いですね。12月に国際会館近くのホテルであったのですが、卒業する部員が壇上で話したあと、花道を帰っていきます。
それまでには、「頑張った」という気持ちはなかったのですが、花道を歩く際には、4年間の苦しかったことが走馬灯のように思い出され、涙が止まらなくなって。皆の前では絶対泣かないと決めていたのですが…。「もうこいつらと野球できない」と思い、そして「自分頑張ったな」と認めてあげた瞬間でした。リーグ戦で、最後に集合写真撮るのとは全然違いましたね。
あとは、ベンチには入っていなかったですが、4回生秋の近大戦3戦目。立命大は坂本(裕哉、注5)が投げていましたが、近大の竹村(陸、注6)に打たれて逆転されて、リーグ戦優勝が無くなった試合ですね。近大の投手は村西(良太、注7)と鷲崎(淳、注8)でしたね。
(注3)秋川優史…1997年生。今治西高~立命大。元カナフレックス投手。
(注4)高井元太…1999年生。龍谷大平安高~立命大~SUNホールディングス。現SUNホールディングスWestGM。
(注5)坂本裕哉…1997年生。福岡大大濠高~立命大。現横浜DeNAベイスターズ投手。
(注6)竹村陸…1997年生。神戸国際大付高~近大。現日本生命外野手。
(注7)村西良太…1997年生。津名高~近大。現オリックス・バファローズ投手。
(注8)鷲崎淳…1998年生。創成館高~近大。現JR九州投手。
――リーグ戦登板を果たされて、スタンドを観た時にはどういう気持ちになりましたか。
山下さん
「メンバーとして投げる景色はこんな感じなんだ…」と実感しましたね。高揚感がありました。正直投げるまではめちゃめちゃ緊張していたのですが。言葉にできない経験でした。スタンドからの応援はめちゃめちゃ聞こえます。相手の京大の応援も力になりましたね。
どうやったら全国に出られるのかわからなかった
――大学野球引退後、野球は継続しようと思っていましたか。
山下さん
草野球くらいでいいかなと思っていました。エラーしても笑っていられるような。やり切っていましたので…。
――社会人野球に「クラブチーム」のカテゴリがあることは、大学時代からご存知でしたか。
山下さん
4回生の夏か秋頃に、コーチから聞いて存在を知りました。
私の就職先の関東のチームをいくらかピックアップしてくれて、紹介してくださいました。
――川口ゴールデンドリームスに入団した経緯を教えてください。
山下さん
大学野球引退後、バーンアウトしていました。やる気がなかったです。Twitter(現X)上での私の引退ツイートを見て、川口ゴールデンドリームスを含め、3、4チームからメッセージが来たのですが、最初は全てお断りしていました。
そのあと1月か2月に「野球やりたくなってきたなー」とツイートしたら、川口ゴールデンドリームスの豊山(裕憙、注9)さんから何回も何回もお誘いがありまして…。
誘われること自体は嬉しかったですね。大学では必要とされるために野球をやってきたので。必要とされることは嬉しかったです。
(注9)豊山裕憙…1988年生。川口青陵高~全三郷硬式野球部。現川口ゴールデンドリームス内野手、主将。
――2020年に入部されましたが、入部した当時のチームの雰囲気はいかがでしたか。
山下さん
チームはめちゃくちゃでしたね。めちゃめちゃ楽しそうでしたけどね。ブルペンでもストライクが入らない投手がいるし。ただ、人はみんなよかった。
入部したのも、「入部した」という認識がなく、「先に選手登録しとくね」と…(笑)。
前年(2019年)は、クラブ選手権の関東予選まで行っているんですが、「これで本当に関東に出たのか」と思うほどでした。ただ、ポテンシャルは凄くあるメンバーが多かったので、自分がこのチームを強くできたら面白そうだなと。
――そのような「めちゃくちゃ」なチームを変えるために、山下さんがされたことはどういったことでしたか。
山下さん
投手陣の整備をしました。その際には、伝える順序にも気を付けました。
まず投手陣はストライクをとること。初球ストライクをとって、2-1ピッチをしようと。それができるようになったら、インサイド真っすぐを投げられるようにしよう。それができるようになったら、変化球で1つカウントがとれるようにしよう。そのあとに2つとれるようにしよう…。埼玉のクラブにはこういう打者が多いからと、理由も添えて。
今ならばみんな考えてやっていますから言う必要はないですが、当時は自分で考えるメンバーがそんなにいなかったので。フェーズごとにテーマを設定して、伝えていくというのをやっていました。
牽制のサインやフラッシュサインも作りましたね。最低限のことからやりました。
入部してからすぐにコーチ役になりました。自分もクソガキだったので、思ったことはよく言ってました。
ただ最初は、どうやったら全国に出られるのかわかりませんでした。試合をしていても、それが何の大会かもわからなくて。全国のレベル感も知りませんでした。
――川口ゴールデンドリームスには立命大出身の選手が何人かいますが、立命大出身者の皆さんはどのような経緯で入部したのか教えていただけますか。
山下さん
立命大出身者では、私が最初に入部しました。そのあと松原(岳、注10)を誘いました。投げられるピッチャーが小野瀬(辰也、注11)さんと私しかいなかったので、これではどうやってもトーナメントを勝ち抜けない。岳も最初やる気なかったです。「ユニフォームもスパイクもない」と。じゃあ買えばいいじゃんと、スパイクを買わせました(笑)。入らざるを得ない状況にしました。それが2020年の7、8月でしたね。
渡邊(元登、注12)がその次でしたね。1回断られましたが、秋にセカンドを守る選手がいなくなり、もう一度誘ったら入部してくれました。
そのあと、松原と渡邊が根上(一茂、注13)を誘いましたね。
(注10)松原岳…1997年生。立命館宇治高~立命大。現川口ゴールデンドリームス投手。
(注11)小野瀬辰也…1988年生。国際基督教大高。現川口ゴールデンドリームス投手。
(注12)渡邊元登…1997年生。掛川西高~立命大。現川口ゴールデンドリームス内野手。
(注13)根上一茂…1997年生。金沢高~立命大。現川口ゴールデンドリームスコーチ兼内野手。
――埼玉のクラブチームといえば所沢グリーンベースボールクラブが強豪として挙げられますが、所沢グリーンベースボールクラブに対してはどのようなイメージがありましたか。
山下さん
めちゃくちゃ差があるとは正直思っていませんでした。ただ細かいことを凄くきっちりやってくる。その部分で負けていて、1個上のチームだなと。
ピッチャーだったら柄澤(祥雄、注14)さん、小林(祐樹、注15)さんをはじめとして、僕らがピッチャーとしてやりたいことを出来ている。変化球でカウントが取れ、インサイド投げられて、フィールディングをしっかりやるとか。
細かいことをしっかりやってくるから、野球の単純な実力だけならばあまり変わらなくても、そこに差が出てくる。
(注14)柄澤祥雄…1984年生。東農大三高~東農大~JR東日本~所沢グリーンベースボールクラブ。現JR東日本コーチ。
(注15)小林祐樹…1995年生。坂戸高~武蔵大。現所沢グリーンベースボールクラブ投手。
――クラブ野球は色んな人が色んな経緯をもってチームに加入します。同じ目標でチームがまとまるために、何が必要だと思いますか。
山下さん
例えば、ピッチャーならばこの相手を倒すためにこういうことをやるとか、やることを明確にすることが大事だと思います。各人が野球をやる目的は違うにせよ、勝つためにやることは共通しているので、やることを明確にする。誰が何イニング投げなければならないとか、こういう相手にどういうピッチングをするのか、とか。
例を挙げるならば、今年のクラブ選手権の予選でも、1回戦では誰が先発してどういうピッチングをするとか、初戦から準決勝くらいまである程度決まっていました。ゴールからの逆算ですね。
――川口ゴールデンドリームスが、勝つために組織的に野球をやれるようになったのはいつ頃からですか。
山下さん
根上が本気になってくれて以降、ですかね。彼がコーチとしてしっかりやってくれるようになったのが大きいですね。2023年の秋くらいから…。
本日の前編はここまで。
山下さんご自身のnoteや、ウェブ上の記事にもある立命大時代の取り組みについて、様々な新たなエピソードを語っていただきました。
川口ゴールデンドリームス加入後については、今年に至るまでの「前史」のような話がとても興味深かったです。
さて、明日公開の後編では、山下さんから見た今年のチームの躍進についてや、トラッキングデータについて、こだわりを持っているトレーニング・練習法について語られます。ご期待ください!