字のない葉書
小中学生の頃、クラスには、悪さをして教師を怒らせては喜ぶバカどもが沢山いた。
止めもしなかったぼくも共犯かもしれないが、その話は時効ということにさせてもらう。
その連中はゲームを持ち込んで授業中にやっていたり、消しゴムをちぎっては教師の後頭部めがけて投げてみたり、チョークの粉をたっぷり蓄えた黒板消しを教室で叩いたり。
中庭に机が落とされたこともあった。
教師も個性派揃いだったので、バカはほっとけみたいな態度だったり、大声で怒鳴ったり、職員室に帰って泣いたり、反応は様々だった。
中でも記憶に残っている、教師の激怒がある。
国語の授業中、いつものように真面目に授業を受けない連中が多発して、教師のイライラが頂点に達したのであろう。
突然大声で
「罵声やげんこつー!!」
と叫んだのだ。
真面目だったぼくは、教科書をちゃんと見ていたので、教科書の文章を読みながら怒っているのだと分かった。
しかし、ふざけていた連中はそんなことも知らないので、なぜ罵声っていう罵声?ゲンコツは?と頭の上にいくつものクエスチョンマークを浮かべていた。
クレッシェンドがかかったような怒鳴り声とワードを面白がって、「罵声やげんこつー!」というモノマネが流行った。
それは、ぼくもマネした。
その教科書の文章は、その一言のみを残して残りはすべて頭から消え去ってしまった。
あれから15年以上が経ち、ふと、あの時の文章は何だったのか気になって調べてみた。
「罵声やげんこつ」で調べると、すぐに見つかった。
向田邦子さんの『字のない葉書』という随筆だった。
あの時は「罵声やげんこつ」という1ワードだけが記憶に残っていたが、どんな文章だったのか、読んでみた。
そこには、戦時下を離れ離れに、それでも繋がりを切らさぬよう、励まし合って生きた家族の姿があった。
あの頃のぼくたちは愚かだった。
人が傷ついても、自分が面白ければそれでよいという考えしかなかったのだろう。
常に自分以外の誰かのことを考えている、あの家族とは大違いじゃないか。
今ぼくは、自分のために働いて、自分のために生きている。
あの頃から変わっていない。
世界のため、人類のため、なんて大それたことはできないが、身近な誰かのために働いて、誰かのために生きる。
そんな幸せも感じられる人間でありたい。
そして、自信をもって大きな○を描き続けられるような日々を過ごしていきたい、と思った。
あと、作中の父はとんだDV男だ、と思った。