鈴原るるの卒業に際して。苦しさと向き合うために書く。
最初に
6月30日は、私にとって衝撃的な日でした。おそらく、にじさんじリスナーの多くにとっても、そうであったと思います。その日は大きく二つの出来事がありました。一つは黛灰に関すること。もう一つは鈴原るるに関すること。前者は結果的には喜ばしいことでしたが、後者は素直に喜べるものではありませんでした。
鈴原るるというライバーのことを慮れば、私は沈黙するのが最善なのかもしれません。彼女はとても優しいから、リスナーが悲しんでいたり、憤ってたりすることを望まないでしょうから。しかし、残念ながら、私はそこまで人間ができているわけではないので、それではこのどうしようもない気持ちが晴れませんでした。なんとかして、言葉にして吐き出して、それによって自分を納得させたいと思った次第です。何の解決にもならないことを承知で、それどころか悪影響を及ぼすことになったとしても、自分の気持ちを書かせていただきたいと思います。
私の心が晴れないということ
エンターテイナーとして、私たちを楽しませてくれた人が引退してしまうことは、どの業界でも悲しいことだと思います。
「もう彼とは会えないのだ」「もう彼女がライブすることはないのだ」と寂しい気持ちでいっぱいになります。
それでも、エンタメを楽しむためのツールではなく、相手は「ひとつの人格」であるという大前提のもとに成り立っているのがVtuberです。だからこそ、その寂しさを抱えながらも、ライバーの意思を尊重するのが礼儀というものでしょう。
るるちゃんの前に引退したギバラにしても、私はとても悲しかったです。それでも彼女は「やりたいことができた」と、にじさんじの活動を通じて、
未来に想いをはせることができたのだから、これは寂しくとも言祝ぐべきことだと、心から送り出すことができました。
それと対照的だったのが、るるちゃんの引退です。彼女の引退理由は、知っての通り「脅迫」によるものでした。
脅迫がなければ、彼女はまだ大好きなにじさんじで活動し、仲間とともに笑いあえたのだと思うと、悔しいという気持ちでいっぱいです。何故、何の落ち度もなく、優しい彼女が心無い人間たちのせいで自分の人生を台無しにされなければならないのか。彼女がリスナーを煽ったり、バカにするスタイルの配信をしていたのならば、多少は自業自得と言えたかもしれません。頭の悪そうな性欲まみれの男を狙い撃ちするような配信スタイルだとしたら、それも自業自得な部分もあったと言えたかもしれません。しかし、実際はそうではなかったじゃないですか。その正反対で、とても温かみがある、下品なところが一つもない配信者だったじゃないですか。狂気は垣間見れたとしても、人柄の良さがとても評価されていたのに。
彼女の引退理由は、『脅迫に怯えて生活できなくなったから』でもなく、『事務所や警察が何の対応もしてくれないので愛想をつかしたから』でもありません。
対応をすることはできるのですが、そのたびに休止してしまうとリスナーが心配してしまうからというのが理由だと、彼女は言いました。彼女は最後まで私たちのことを考えてくれたのです。
リスナーが心配してしまうこと、彼女自身が望むような配信ができなくなったことが正式な理由です。ケジメを付けるための引退です。
しかし、そのようにニュアンスを変えたところで何になるでしょうか。相変わらず私の心は晴れません。それでも心無い第三者さえいなければ、彼女が活動を続けられたことには変わりはないのですから。
彼女は「果たし状」とぼやかした言い方をしていました。私はそれをアンチによる殺害予告などの嫌がらせだと捉えていたのですが、ツイッターを眺めていると、ガチ恋をこじらせたファンがストーカー行為に及んだという考えもあるそうです。
そこは本質ではないのかもしれません。どのような意図が介入しようと、迷惑行為には変わりないのですから。
この両極端、どちらであろうとも、犯人が憎いという気持ちには変わりありません。犯人は私には理解ができない馬鹿野郎でしかありません。
彼女の今後の問題、業界全体の問題として、そこの追及は必要だったとしても、私が今抱えているのは『私自身の問題』です。
つまり「私自身は、今、抱いているこの気持ちとどう向き合うべきなのだろうか」ということです。
このような気持ちは、依然も同じように味わったこともあります。そのときも、とてつもない悔しさとやるせなさを感じました。その出来事は、アニメ会社の京都アニメーションが放火され、才能ある勤勉な人々が大勢殺害された事件です。あのときと同じです。時間の流れは傷を癒してくれますが、それでも、いまだに思い出すと胸が痛みます。
るるちゃんは言葉を選んで、真実を語りながらもポジティブな印象を与えていました。それはリスナーが悲しまないため、憤らないためでしょう。このように文章を書くことは、そんな彼女の気持ちを尊重していないのではないか。彼女の思いやりを台無しにしているのではないかといわれても仕方ありません。
しかし、それでも私は、彼女の卒業を『美化』して送り出すことはできませんでした。
『門出』『ライバーの意思を尊重』『彼女の想いに応えるべき』『笑顔で送り出そう』『彼女はそんなことを望んでない』と言葉を紡いで美しい物語を作り出したくはないのです。
『あるべき姿勢』がなんとなく掴めた
人間はどうしようもない不条理を前にすると『自分を納得させる理由を探す』という心理的な作用が働きます。そうしないと心の平静を保てないからです。
私の心は全く穏やかではありません。納得させる理由を探してしまいます。頭空っぽにして、美化して「よかったね。幸あれ!」で送り出せるもんならばそれで楽なのかもしれませんが、意地でもそうしたくないわけです。
あくまでも人間心理作用によるごまかしを拒否し、なおかつ心の平静を保つための落としどころを見つけたいのですが、それは困難なことです。しかし、少なくとも努めることはできるでしょう。
るるちゃんは全Vtuberとリスナーの笑顔を望んでいたし、リゼはそんな彼女の想いを汲むよう引用リツイートしています。リゼは本当に強い子だと思います。本人の次に悲しみ憤っているのは、おそらく彼女だったでしょうに。一リスナーに過ぎない私がこうも往生際が悪いのに、リゼのこのツイートには頭が下がります。彼女は教養もあるし、るるちゃんと同じくリスナー想いで優しく、心も強い。私が彼女に勝っているところなんて画力ぐらいでしょう。それもどっこいどっこいですが。
これに光明を見出したというのは大げさですが、ここに私があるべき姿勢というものが示されていると思いました。それは彼女たちの強さに応えることです。
リゼは、「るるちゃんの卒業は悲しむ事柄ではない」とは言ってません。むしろ逆に、悲しい気持ち、辛い気持ち、やるせない気持ち、切ない気持ち、悔しい気持ち、そのような負の感情が生まれるに違いないことを悟っています。そのうえで皆に笑って欲しいと呼び掛けるのです。
私は依然として、るるちゃんの卒業理由に世界の不条理を感じるし、何があっても美化してやろうとも思いません。本人に「これはポジティブな卒業です」と面を向って言われたとしても、私は納得してやりません。「あなたの最高の活動は、最低な連中によって終わらされた」と、彼女の終焉を感動的なものとして扱うことを一切否定します。この不条理を私は悲しむし、ずっと根に持つし、加害者に憤ります。そして、この悲劇をイエス・キリストのように聖なる属性を付与し、残された者を結束させるためのツールとして活用することすらも否定します。
京都アニメーションの事件を美化できなかったのと同じです。京都アニメーションの件については、全国から募金が集まったり、その募金はすべて遺族のために使われたなど、掛け値なしの美談はありました。しかし、事件そのものは、胸糞悪く尾を引き続けるものでした。なんのごまかしようもなく。
不条理を生きる
そして、ここからが重要なことです。その不条理に苦しんだ上で、私は、彼女たちの逞しさを見習い、その想いに応えようと努めることならできる。いや、そうしなければならないと思うようになりました。
人は苦しみを前にして、その苦しみに理由付けを行います。それが不条理なものであれば特に。人はその苦しみを聖化して享受するべきものと考えるようになります。例えば『神の試練』などと呼び方を変えて。ドイツの政治学者マックス・ヴェーバーは、これを『苦難の神議論』と呼びます。
私はるるちゃんの卒業をどうにかしてポジティブに捉えられないものかと思ったり、笑顔で見送りたいという誘惑に、一切かられなかったわけではありません。それは、これが原因です。しかし、私はそれにNOを突きつけます。
この誘惑とは正反対に、原始仏教では、まっすぐにその苦しみと向き合うことが説かれます。これは私が思想において、原始仏教に傾倒している理由でもあります。
だから、私は、このどうしようもないやるせなさを正面から受け止めて苦しみます。るるちゃんなら「そんな暗い気持ちにならないで」と言うでしょうが、それでも私は受け入れます。そのうえで、よく笑えるように努めることで、彼女から与えられた恩に応えたいと思います。それが、ひとまず、私が見出した回答です。
笑顔の割合、その有限性
かつて、私はこんな空想話を考えたことがあります。
人間は顔が一つなのだから、一度にできる表情は一つしかない。笑い顔のときは泣き顔になれない。逆もしかり。苦笑いとか複雑な表情もあるが、基本的に一つの表情しかできない。
あるとき、わたしがポックリと亡くなったとき、天上で神様らしい人が待ち構えていた。大きなスクリーンにエクセルが表示され、彼はエクセルのデータを指しながら、説明をしてきた。
そこにはパーセンテージが書かれていた。
『笑い顔〇〇%』『泣き顔〇〇%』のように。
それは私の人生の全時間を100%として、生涯を通じて、どの表情をどれだけしてきたか、そのパーセンテージがデータとして纏められていた。
そのとき、私の笑顔のパーセンテージがとてつもなく低かったらどうだろうか。神様らしき人が、ゲームスコアを伝えるかのように「ランクEだね」と言ってきたらどうだろうか。
もちろん癪に障るだろう。たった一回きりの人生が失敗だったように感じてしまうだろう。私の人生のクオリティは低かった。もう少し意識していれば笑顔のパーセンテージを増やすことができたのではないかと後悔してしまうだろう。
ここから、私は「だから笑顔になれるよう努めよう」と思うようになりました。誤解がないように言えば「親が死んだときも、意味もなく暴漢に殴られるようなことがあっても笑顔でいるべきだ」というわけではありません。悲しいときは泣いてもいいし、相手に失礼があったら怒ってもいい。ただ、私たちの住む世界は、そのようなことが起こりうる不条理に満ちていることを自覚し、そうであっても、その中で可及的に自分が笑顔になれるようなことを見出し、没頭していこう。という心構えでいるべきだということです。
私が考えたこのオリジナルの話を、私は今の今まで忘れていました。そういえば、こんな架空の話を思い浮かべたことあったっけ。と、そう思いだせたのは、るるちゃんの卒業、そして上記のツイートでいろいろと想いを巡らせたからです。
るるちゃんやリゼが伝えたかったのは、こういうことなのだと思いたいです。不条理に苛まれても、それでも、この世界から目を逸らさずに向き合って、その上で笑っていきましょうと。人生は有限なのだから。
るるちゃんは最後に皆の笑顔を望みました。だから私もそれに応える……のではなく、それは彼女に言われなくともそうすべきことでした。少なくとも私の人生観に照らし合わせてみれば。忙しない日々を過ごしていて、つい忘れていましたが、世界は不条理であるが、その上で私は幸福度を上げ、一度きりの人生を納得いくものにするために努めるべきなのだと、改めて気付かされました。
繰り返しますが、彼女の卒業、その理由だけに関していえば、変わらず悔しさとやるせなさがこみあげてきます。仮に私が全知全能に近い超能力者で私刑が許されていたのなら、今すぐにでも犯人を殺しにいってやりたい気分です。私は、彼女の卒業を美化しませんし、ポジティブに捉えません。少年漫画の主人公のように悲劇を糧にして「この悲しみをバネにして、成長のきっかけにすることができた」と、何かしらプラスの価値を見出してやりません。まったくの無価値。何も得るもののない唾棄すべき事柄です。いろいろと考えさせられ、気付かされることがあったのは事実ですが、聖化するのは憚られます。
それでも、今まで私を楽しませてくれた彼女の恩に報いることができるとしたら、また彼女のリスナーとして恥じない姿勢があるとすれば、それは、心が折れそうになっても、笑えるための努力をし、そのために頭を働かせ、苦しみから目を逸らさずに乗り越えていくことではないでしょうか。
加賀美社長もるるちゃんのことを仄めかしながら「どうにもならんときは笑おう」と言いました。これも誤魔化しや思考停止ではなく、不条理を認識したうえでの最善手、真理なのだと思います。このように、私は私の心の持ち方に、ひとつの答えを見いだせたと思います。
彼女が私たちの幸せを願ってくれたように、私も彼女の幸せを願ってます。
最後に
最後に、恨みつらみの多い自己主張だけでは味気ないので、何かしら役に立つことでも書こうと思います。
『不条理を納得させようとする心理作用』に関連する心理学用語で『公平世界仮説』というものがあります。
これは、世界は公正であり、因果応報、勧善懲悪の原理が働いている。被害に遭うのは、その人にも欠点があったからだと思ってしまう心理のことです。有名なところだと「そんな恰好をしているから痴漢に合うのだ」という文句です。
この心理は、不条理という、自分自身の行いではどうしようもない脅威から目をそらすため、自分を安心させたいという心の働きからくる誤謬です。
これの悪いところは、被害者側の人間が加害者にように扱われる恐れがあることです。
そして、悲劇的な出来事に関しては、人は絶対的な悪の存在を求めようとします。これも不条理による「やるせなさ」に対し、だれかを責めることで、納得して落ち着きたいという心の働きからくる誤謬です。
るるちゃんの場合は、果たし状を送ってきた相手というわかりやすい悪がいましたが、すべき仕事をしなかった無能であると勝手な解釈をして、運営を責める人も少なからずいました。
この心理効果については、絶対的な悪が存在しない、ホロライブの桐生ココのほうが顕著でした。彼女の引退は邪推され、事実無根の情報に基づいて運営を攻撃する人が目立ちました。
過去の運営の行いや彼女の引退理由が伏せられたことなど、邪推を生みやすい要素はあったとは言え、なんとかして悪を作り出して攻撃しようというファンの行き過ぎた行為が目に余りました。
桐生ココは、カバー株式会社の社長であるYAGOOを玩具にして、最後まで遊び倒す配信をしてましたが、あれはもしかすると、事実無根の情報によって、悪者にされている運営を守るための突発的な企画だったのかもしれません。
「運営とは仲が良いですよ」とアピールしなければならなくなったとしたら、彼女に余計な気遣いをさせてしまったことです。リスナーがライバーの足を引っ張ってはいけませんね。
そうだとすると、彼女もるるちゃんと同じく、気遣いのできる仲間想いのライバーということです。にじさんじもホロライブも、才能に溢れた惜しい人を失ってしまいました。
ただの1リスナー、されど1リスナー。一人のリスナーとしての在り方を考えさせられる卒業でした。