新約聖書における七十人訳引用 マタイ福音書その6

15:4 言いたい事は分かるけどなぜこの引用をしたのか

「神は言われた、『父と母とを敬え』、
また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と」
出エジプト記20:12「あなたの父と母を敬え。
これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」
申命記5:16「あなたの神、主が命じられたように、
あなたの父と母とを敬え。
あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く命を保ち、
さいわいを得ることのできるためである」
および
出エジプト記21:17「自分の父または母をのろう者は、
必ず殺されなければならない」
レビ記20:9「だれでも父または母をのろう者は、
必ず殺されなければならない。
彼が父または母をのろったので、その血は彼に帰するであろう」

マタイ「τιμα τον πατερα σου και την μητερα σου
出エジプト記「τίμα τὸν πατέρα σου καὶ τὴν μητέρα σου
「父と母とを敬え」

マタイ「ο κακολογων πατερα η μητερα θανατω τελευτατω
出エジプト記「ὁ κακολογῶν πατέρα αὐτοῦ ἢ μητέρα αὐτοῦ τελευτήσει θανάτῳ
レビ「πατέρα αὐτοῦ ἢ τὴν μητέρα αὐτοῦ θανάτῳ」
「父または母をののしる者は、必ず死に定められる」
こちらはマタイと出エジプト記でだいたい一致するが、
マタイが「αὐτοῦ(hereとかthere。こことかあそこ)」を外していたり、
「θανατω(死)」「τελευτατω(必ず)」を逆にしていたりする。

15:2「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」
のパリサイ人の問に対する答え、なのだけど。

さっき10:37で「わたしよりも父または母を愛する者は、
わたしにふさわしくない。
わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」
って言ってたような。呪ってないからセーフなんだろうか。

マタイ福音書の文脈だと、
15:19-20「というのは、悪い思い、すなわち、
殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、
心の中から出てくるのであって、
20 これらのものが人を汚すのである。
しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」
とあり、心から出てくる悪徳は人(の生命)を汚すが、洗わない手で食事をしてもその人を毀損するものではない、とされる。律法に従う事で神を呪う位ならば神を愛する方がいい、という主張をしたいわけで、ここでは父と母を神の位置に据えた例え話をしたのだろう、多分。10:37と合わせて考えてしまうと変な事になるってだけで。

あるいは当時は手を洗う為の水とかが貴重だったのかもしれない。

15:8-9 ここってイエス=人間になっちゃうとブーメラン直撃だよね

「『この民は、口さきではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
9 人間のいましめを教として教え、
無意味にわたしを拝んでいる』」
イザヤ書29:13「主は言われた、
「この民は口をもってわたしに近づき、
くちびるをもってわたしを敬うけれども、
その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、
そらで覚えた人の戒めによるのである」

マタイ「εγγιζει μοι ο λαος ουτος τω στοματι αυτων και τοις χειλεσιν
με τιμα η δε καρδια αυτων πορρω απεχει απ εμου」
イザヤ書「ἐγγίζει μοι ὁ λαὸς οὗτος τοῖς χείλεσιν αὐτῶν τιμῶσίν
με ἡ δὲ καρδία αὐτῶν πόρρω ἀπέχει ἀπ' ἐμοῦ
「この民は、口さきではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている」
七十人訳イザヤ書の「χείλεσιν αὐτῶν τιμῶσίν με ἡ(くちびる(直訳すると舌)でわたしを敬うけれども)」が
マタイでは「στοματι αυτων και τοις χειλεσιν με τιμα(口さき(直訳すると口と舌)ではわたしを敬うが)」に書き換わっている。「στοματι(口)」が入ったり順番入れ替わったり。他は一致。
「わたしに近づき」はヘブライ語の旧約聖書には存在する。七十人訳での欠訳。

マタイ「ματην δε σεβονται με διδασκοντες διδασκαλιας ενταλματα ανθρωπων
イザヤ書「μάτην δὲ σέβονταί με διδάσκοντες ἐντάλματα ἀνθρώπων καὶ διδασκαλίας
「人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる」
「その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、
そらで覚えた人の戒めによるのである」の箇所。
マタイは七十人訳イザヤ書から「διδασκαλιας(教え)」の場所を変えている。
「その心はわたしから遠く離れ」もヘブライ語には存在。七十人訳の(r。

19:4-6 処女懐胎もパウロも胡散臭くなる大問題の箇所

「イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。
『創造者は初めから人を男と女とに造られ、
5 そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、
ふたりの者は一体となるべきである』。
6 彼らはもはや、ふたりではなく一体である。
だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」」
創世記1:27「神は自分のかたちに人を創造された。
すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」
および
2:24「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、
一体となるのである」

マタイ「ενεκεν τουτου καταλειψει ανθρωπος τον πατερα και
την μητερα και προσκολληθησεται τη γυναικι αυτου και
εσονται οι δυο εις σαρκα μιαν

創世記「ἕνεκεν τούτου καταλείψει ἄνθρωπος τὸν πατέρα αὐτοῦ καὶ
τὴν μητέρα
αὐτοῦ καὶ προσκολληθήσεται πρὸς τὴν γυναῖκα αὐτοῦ καὶ
ἔσονται οἱ δύο εἰς σάρκα μίαν

「それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである
(それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである)」
マタイは「τὸν πατέρα αὐτοῦ καὶ τὴν μητέρα αὐτοῦ」を「τον πατερα και την μητερα」、「τον πατερα και την μητερα(父と母)」から「αὐτοῦ(その)」を外し、かつ「πρὸς(forward toとかtoward。~へ)」を「γυναῖκα(女。ここでは妻と訳されている)」に書き足している。
この部分の残りは一致。
逆に言えば創世記2:24に該当する部分以外はほとんど一致していなかった。

第一章では男女が一緒に創造され
第二章ではアダムのあばら骨からイブが創造された、
結局どっちなのかが問題になる事で有名なこのくだり。
ナザレのイエスは折衷案を取った模様。

19:3でパリサイ人が「何かの理由で、夫がその妻を出す(離婚する)のは、さしつかえないでしょうか」と聞いた時の返答。

何故かは知らないが、ナザレのイエスは離婚と再婚に妙に厳しい。再婚そのものは認めている申命記の文脈をはみ出してまでもダメだという。…母親が色々言われたのだろうか? それとも母親の再婚相手が…だったか? あるいは本人が私生児扱いで苦労したとか。母親への愛情が分かる言葉って実はそんなにないし。

ナザレのイエスは(まず間違いなく)父親と母親が結ばれて生まれた子供ではない訳で、そこを踏まえると何とも暗闇の見える記述。離婚するように圧力でもかけられていたのか。そもそも本当にイエスに継父がいたのか、母子家庭でとんでもなく苦労して種親に責任を果たせと詰ってやりたかった可能性も0ではないし。ヨセフが実在しなかったという説もあるにはあり、言われてみれば確かに実在根拠も無いからなぁ。

またここを読む限りは、ナザレのイエスは自分が処女懐胎で生まれたとは思ってなかっただろうし、まして自分の父親が神だなんて考えもしなかったとしか。そんな事を公言してたら間違いなく「(父と母が一体にならずに生まれたとか言ってる)お前が言うな」になってしまう訳で。神はマリアと一体になって不可分になったと?流石にそう言い張るのは無理でしょ?

更にはイエスとパウロが明白に矛盾起こしちゃってる箇所でもある。パウロは出来るなら結婚しないほうがいいと言い切ってる(例えば第一コリント7-1「男子は婦人にふれないがよい 」)が、どう考えてもイエス・キリストの言葉に反しているようにしか読めない。なお後世のキリスト教徒はパウロを優先して修道院作ったり禁欲に走ったりしている。

19:18-19 別に地上で何かをしなくてもいいらしい。やる事やるとあの世でいい目を見れるらしいけど。

「イエスは言われた、
「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19 父と母とを敬え』。
また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」」
出エジプト記20:12-16「あなたの父と母を敬え。
これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
13 あなたは殺してはならない。
14 あなたは姦淫してはならない。
15 あなたは盗んではならない。
16 あなたは隣人について、偽証してはならない」

申命記5:16-20「あなたの神、主が命じられたように、
あなたの父と母とを敬え。
あなたの神、主が賜わる地で、
あなたが長く命を保ち、さいわいを得ることのできるためである。
17 あなたは殺してはならない。
18 あなたは姦淫してはならない。
19 あなたは盗んではならない。
20 あなたは隣人について偽証してはならない。」
および
レビ記19:18「あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。
あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である」
「隣人について」が削除されている。

マタイ「αγαπησεις τον πλησιον σου ως σεαυτον
レビ記「ἀγαπήσεις τὸν πλησίον σου ὡς σεαυτόν
「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」

実の所、ここは何処にでもある倫理で当たり障りがないからかそんなに話題にならない。
よく議論になるのは続く19-21
「もしあなたが完全になりたいと思うなら、
帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。
そうすれば、天に宝を持つようになろう。
そして、わたしに従ってきなさい」の方。
ここは旧約引用ではない…のかな、見つからず。

後日キリスト教は主にギリシャ語を使う金持ちの二世に流行ってしまったので何とかこの記述をごまかし、全財産は寄付しなくていいよと言い張ろうとしている。
有名なのがアレクサンドリアのクレメンス。
財産を全部むしるのは勘弁してクレメンス。

ただしイエスは完全でなければ救われないと言っている訳でもない。
19:23「それからイエスは弟子たちに言われた、
「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、
むずかしいものである。
19:24 また、あなたがたに言うが、
富んでいる者が神の国にはいるよりは、
らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
19:25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、
「では、だれが救われることができるのだろう」。
19:26 イエスは彼らを見つめて言われた、
「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」
とあり、富んでいる者は神の国に入るのは難しいが神にはできるとも言っている。一方で財産に限らず家族とかも切り捨てた者には大きな報酬があるよとも直後に言明している。なので金持ちの清貧ごっこが後日流行る事に。

もう一つ余談があって、ルカ18:22では同一の箇所で「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って」、つまり財産を全部売れと書いてある。一方で19:8では取税人の頭であるザアカイが「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」と宣言し、イエスは19:9で「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから」と、つまり不正に取り立ててなければ半分でいいよと答えさせてもいる。…どっちなんだ?

次回でナザレのイエスが門前市をぶっ壊す場面に入る。
そして言動が危うくなっていく。



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